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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[140]トゥバの鉄窯

第6章 北の鉄窯を巡る旅
第5節 トゥバの鉄窯

[140] ■2話 遠征20日目の朝 トゥバの鉄窯
 心地よい眠りをむさぼった翌朝、みなが起き出すのはいつもよりも少し遅かった。夏の牧地を出て二十日が過ぎた。エレグゼンは昨晩、「明日あたりから疲れが出てくる」とナオトに注意した。しかし、そのナオトだけがいつも通りに目覚めて、顔を洗い、火をおこしてみなを待った。
「ここはいつも暖かい」と、皮衣かわごろもを胸元から持ち上げて起き出したメナヒムが、枯れ草を払いながら誰に言うとなく口にした
 何かの鳥がうるさいほど鳴くのを耳にしながら、迎えにやって来た守備隊長の案内でやや東に戻り、金を掘るという川とは別の川筋を辿たどって森に入って行った。ほどなく、一筋の黒い煙が見えてきた。川岸近くの平たい土地に低い土塀を巡らせた窯場は見掛けよりも広かった。奥に向かって広い路が続いている。
 日が梢の上に出るまでにはまだ間がある。

 守備隊長が、その鉄窯を任されているトゥバ人の族長を連れてきてくれた。すでに昨晩、あらましは伝えてあったらしい。それでもメナヒムは左賢王の口上を改めて伝えた。
 目の前の族長は、すべて承知しているというように目線を下げて聞いていた。その両隣りには、ちょっと見ただけではどこの部族の者かわからない年輩の男と匈奴人が一人控えていた。
 そののち、川近くで砂鉄の採集場を見せてもらった。メナヒムが川岸の二、三か所で黒い砂を握り、手のひらで感触を確かめている。
 ――バイガルの川と変わらない。やはり砂鉄だ……。
 エレグゼンが横目でナオトを見遣ると、味を確かめようというのだろう、指ですくった砂を口に含むところだった。
 そのような黒砂の採集場がさらに二か所あった。それから、鉄にする岩が出るという山に登った。鉄を作るときに出たカスを捨ててできたという黒い山を二つ見た。大きな山だった。そうしたカスは、もとは川に流していたという。

 窯場に戻った一行いっこうは、木組みと杉皮とで屋根をしつらえた一角まで広い路を歩いていった。そこが「鉄作りの囲炉裏」だった。族長が使った言葉は鉄窯てつがまだったのだが、離れたところではエレグゼンが執拗しつように鉄作りの囲炉裏と言い張り、根負けして、仲間内ではそれで通すようになった。
 もとよりそれは族長の耳に届く。そのためかえって、族長は警戒心を解いた。
 ――囲炉裏だと、素人しろうとめが……。
 北の湖バイガル丁零テイレイの窯を見て以来、真似まねて造ってみると意気込んでいるナオトは、トゥバの族長の話を聞きながら、その鉄窯は次のような構えだと見て取った。
 鉄窯を設けたこの場所は、黒砂が手に入りやすいというだけでなく、川に向かって下りていく緩やかな傾斜地というので選んだに違いないと、ナオトは考えた。
 ――木を伐った跡がずっと奥まで続いている。森が近いことも大事なのだろう。それに、濡らした指先に川からくる風を感じる。なるほど、そういう場所なのだ……。
 この鉄窯の炉は、丁零の四角くて低い箱のような炉とは違い、丸い形をしていた。炉の下の地面は、大人が立っても頭が出ないほどに深く掘り下げてあると族長が得意そうに話すのだが、メナヒムたちにはその意味は分からなかった。一人、ナオトが身を乗り出すようにして聞き入っている。
 ――砂がちの土地なので、掘るのはそれほど手間ではなかっただろう。むしろ、壁が崩れないように防ぐのが難しい。たぶん、掘った穴には湿気を防ぐために炭や小石が大量に埋めてある……。
 仕上げ前だという炉は煉瓦れんがと粘土とを組み合わせて作ってあり、大人が一人寝転んで納まるほどの大きさだった。煉瓦を敷き詰めた小屋の床と同じ高さの炉の底には、中心から外に向けてこぶしほどの幅の溝が何本も穿うがってある。その溝穴が土で埋まらないように、素焼きした小さめの煉瓦を箱型に組んで守っている。
 近づいてもいいと言われて、ナオトは炉の中に半身を入れて覗き込んだ。炉の底には床とは違う色の素焼き煉瓦が敷いてあり、炉の内側の壁も同じ煉瓦でぐるりと覆われている。壁の煉瓦の合わせと、その上に塗った粘土の少し剥がれた部分を指でなぞってみる。
 ――ずいぶん厚く塗ってある。この炉の中で火を焚くのだろうか。すると、壁の粘土は焼き固まりはしないか……?

 ここまでじっくりと見たところで、後ろに控えていた背の低い工人たくみが族長に耳打ちした。奥の方の窯で砂鉄を焼く準備が整ったのだろう。
 ナオトたちが下がり、輪を作るようにして周りで見ていると、背の高い工人が立て掛けたはしごを使って炉の中に入り、外から手渡される長めの薪を炉の内側に、縦、縦、縦、縦、横、横、横、横と隙間を空けずに並べていった。太くて真っすぐな薪はより下に、細めのものは上にと置いている。
 別の若い工人が、ほそい鉄の棒を交差させて魚獲うおとりの網のようにしたものを小屋の奥から持ってきて、薪で形作った台の上に敷いた。その鉄の網の上に、同じように交差させながら今度は長い木炭すみを幾重にも山をなすように盛った。
 炉の上は開いたままだった。下に小さく焚き口が切ってある。他に、先ほど見た溝の外側が覗き穴のようにしていくつも見えている。
 その穴のそばに、どこか見覚えのある道具を工人が持ち込んだ。足で踏んで試している。ヒダカで土の器を焼くときに、火勢を上げるためにと火吹きの竹に替えてナオトが工夫したものと同じ仕組みの道具だった。
 そろいの板二枚を細い革で合わせて留めて開け閉じできるようにし、その脇を何かの獣の革でくるんで袋にしてある。革を木に留めるのに、これまで見たことのない端が丸い金属――針と組み合わせてあり、びょうというと後で知った――を何個も並べて打っている。上にくる方の板を足で踏んで風を送るもののようだ。
 ナオトが作ったものは足踏みではなく、両手で閉じるようになっていたが、閉じた後に二枚の板が元に戻るようにと、あぶって曲げた竹の板を何枚か組み合わせて使った。この道具はどうなっているのだろうかと、ついつい気になった。
 ――ゲルで使っている水汲みの袋のように、伸び縮みする何かの獣の臓物はらわたを膨らませて板の間に挟んでいるのかもしれない……。
 隣りにいるエレグゼンに「あの道具は何という?」と訊くと、思いがけず、後ろからバフティヤールが「フイゴだ」と小声で教えてくれた。
 バフティヤールがナオトに向かって口を開くことはまずない。
 ――ここでは静かにしていろという意味なのだろうか?
 そうも思ったが、ナオトは後ろを振り返って小さく「ありがとう」と応じた。そして口の中で「フイゴ、フイゴ、フイゴ」と唱えた。

 日はもう傾きはじめていた。
 用意が整うのを待つ間、興味深そうにして控えていたナオトの目付きが気になったものか、族長が笑い話のようにして薪と木炭の間に置いた鉄の網の話をした。敵が攻めてきたときには「この網だけは奪われてはならない、身に帯びて逃げよ」と固く言い渡してあるというのだ。
「あの者は」と一人の若い工人を指差し、「もし失くせば一族もろともに殺されると知っている」と言った。まさかと思って周囲は笑ったが、族長の目は笑っていないとナオトは気付いていた。
 ――鉄の網か。それほどに大事なものなのだろうか?

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