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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[128] 丁零族が住む北の湖に向かう

第6章 北の鉄窯を巡る旅
第1節 バイガル湖を目指す
 
[128] ■2話 遠征初日 丁零族が住む北の湖バイガルに向かう
 その二日後、メナヒムはおいのエレグゼンを同行して北のうみバイガルを目指していた。「我が息子」と呼ぶ養子のバフティヤールと、右まぶたに傷のある百戦錬磨の匈奴兵バトゥ、それにナオトを伴っていた。
 遠目には何ら変わったところのないわずか五騎の小部隊だったが、乗り手には匈奴に見えない者が多く混じり、替えの馬二頭を引いていた。その二頭の背には、長旅に備えてか、糧食や鍋、弓矢と斧などの武具を入れた運び具のヘーベを左右に振り分けて載せている。
 メナヒムは犬を連れて行くべきかと迷い、結局は娘のザヤに、「世話を頼む」と言って預けてきた。
 丁零テイレイを調べるようにと命じられた日、戻ったメナヒムはバフティヤールとエレグゼンをゲルに呼び寄せた。バトゥはすでにメナヒムの後ろに控えていた。
 話を聞き終えたエレグゼンは、何を思ったか、「ナオトを連れて行きましょう」と言った。
「ナオトは奴隷ではない。しかし、いつもまるで奴隷のような考え方をします。もの作りを楽しむ。我らのもとに来てからもうすぐ一年になります。いまでは、匈奴とともに生き、匈奴のことをよく知るようになりました。言葉すら覚えた。連れて行けばきっと役に立ちます。
 なによりも、伯父や吾れが行って何ができるというのですか。まさか、いまは身内ともいえる丁零を何人か連れ去り、遠路、ここまで引き立てて来るわけにもいかないでしょう」
 エレグゼンの進言に、メナヒムは意外にもあっさりと頷き、ナオトの同行を許した。隣りのバフティヤールと後ろのバトゥを眺めやったが、異存はないようだ。昨年の夏、突然現れたナオトの身辺について、メナヒムたちの疑いはすでに解けていた。
 
 エレグゼンからこの旅の話を聞いたナオトは、何にせよ、まだ見ぬ匈奴の北の地方、ことに北の湖バイガルを見ることができるというので、いつになく嬉しそうな顔を見せた。
 ――そうか、いよいよ北の湖が見られるのか!
 フヨの入り江でドルジは、鉄は西のペルシャからバイガルの湖畔に伝わったと言っていた。ヨーゼフからはこの世のものとは思えない怖い話があるといろいろ聞かされた。ナオトにとって、北の湖バイガルは一度は訪れてみたい神秘の場所だった。
 出立しゅったつの前の晩、ゲルの中でナオトは、エレグゼンが見つけて来てくれた鹿しかの革を使って、背負子しょいこに付けた破れかけの麻袋の替えを作っていた。そのついでに、余った革切れで首に掛ける袋を縫っているところにメナヒムが訪れて声を掛けた。
「明日は、よろしく頼む」
 メナヒムがナオトに向かって口を開いたのは、ゲルで食事をして以来、二度目だった。ナオトは黙ってメナヒムを見つめ、いつもより少し深めに頷いた。
 左賢王は、異母兄である狐鹿姑コロクコ単于からのめいを受けたとき、それならばと迷わずメナヒムを選んだ。メナヒムは、アルタイの東と北で十年近く騎兵として暴れ回った。なんといっても土地勘がある。北の湖バイガルにも、何度か使者として送った。それに、信頼できるという点において、メナヒムの右に出る者はいない。
 しかし、アルタイの東に連なるタンヌオラ山脈の北の原が真の目的地であるとは、メナヒムにも話していない。メナヒムが育ち、親族がいまでも暮らす土地を訪れることになるとは伝えていなかった。
 ことが鉄剣のためのボルドである以上、途中、どんな邪魔立てが入るかわからない。いざというときまで知らせない方がメナヒムのためになる。左賢王はそう考えた。
 一方、メナヒムは単純に、この時期に鉄の生産地を見ておくという左賢王の判断は正しいと思った。鉄の確保、とくに鋼をシーナやハカスやソグディアナに頼ることなく手に入れられるようにしなければと、つね日頃感じていたからだ。
 ゴビの南への侵攻は次の秋にと噂されている。漢の酒泉シュセン五原ゴゲンを攻めるには、どうしても鋭い鉄のやじりと強い鉄剣がいる。しかも、大量に。

 五騎はハンガイ山脈を背に北に向かった。まる四日間、単于の夏の牧地を北に進むと、オルホン川がセレンゲ川に合流するところに出た。このセレンゲ川はハンガイ山脈に発して匈奴の国の中央に位置する単于の王庭の北を流れ、トーラ川とオルホン川の水を合わせて、やがて北の湖バイガルに注ぐ。
 川沿いに進むと草原はいつしか疎林に変わった。時折り、西の高地から心地よい風が降ろす。メナヒムがどこで西に折れるかと問うようにしてバトゥを振り返ると、「あとしばらく、このままにて」と応じた。

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