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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[015]潮の流れを読む

第1章 西の海を渡る 
第5節 双胴の舟

[015] ■3話 潮の流れを読む
 カケルは、以前から、この大きな西の海のこちら側とあちら側とで潮の流れが逆向きさかさになっていると、多くの舟長から聞かされてきた。
 自身、幾度も大陸むこうのおかに渡ったカケルは、いまでは、大陸の沖を南に向かうしおの流れが確かにあると身をもって知っている。いまでいうリマン海流である。位置は年により、また時季により変わるが、象潟きさがた奈曽川なそのかわの河口の流れに迫るかというほどの勢いで南に流れている。
 しかし、潮目を読むのが難しく、この流れを使うのは容易ではない。
 しかも、荷で一杯になったとき、カケルの舟はとても扱いにくく、たとえ潮目をうまく読むことができたとしても、舟子を励まして舟を操り、この潮の流れに一度乗って、再びそこから離れるということをやりこなすのはいよいよ難しい。
 古来、多くのヒダカびとが潮に流されたためか行方ゆくえ知れずになっていて、この潮はむしろ避けようとする。

 おおまかに言えば、この北から南に流れる潮の流れは、わたりのはるか北方、奥尻島の西側をあの美しい利尻島に向かって北上したどこかで二つに分かれる。そのうち大陸沿いの海流はフヨの入り江近くまで寄せる。
 そこで、大陸の入り江を目指すカケルは、息慎ソクシンおかに沿って南下してきてヒョウタンを寝かせたような形をした二子山が右手に近づいてきたら、いつもの合図の声を掛ける。
「えーんやーっ」
 舟子は「おーいっ」と声をそろえ、陸に向かって一斉いっせいに漕ぐ。南に行き過ぎても、逆に、流されて北寄りの岸に着けても、シーナバク、息慎などの賊がいて、捕まればきっと恐ろしい目に遭う。避けるには、アムール湾にあるフヨの入り江までカケルの梶取りでうまく漕ぎ着けるしかない。
 舟子たちはいつも、そういうふうに気持ちを張ってかいを握り、力を合わせて必死に漕いで潮の流れから逃れようとする。
 潮に乗り、また、離れるときをどう決めるのかと訊かれても、なにもない海の上でおのれの五感に頼って判断することなので、答えるのは難しい。だから、どうしてもと問われたときにカケルは、「海の中に川が見えたら」と応じることにしている。

 大陸むこうからの帰路はさらに厄介だ。朝夕の風をうまく使わなければ、それこそ、フヨの入り江を出ることすら難しい。風と潮を読み違えて入り江に戻るということもある。
 このあいだも、フヨの入り江から帰る途中、先に舟出したはずの同じ十三湊のマナブが、
「戻って出直すーっ!」
 と、すれ違いざまに声を掛けてきた。「おおーっ」と応えた後で、何があったかと舟の上で話になり、
「一度戻って、荷を結わえ直すのだ」
「荷が重過ぎたのかもしれない」
「風が読みとは違ったか? それとも、誰か舟子が暴れたか?」
「みなを率いて海に出るのは生易なまやさしいことではないなぁ」
 などと、みなで言い合った。
 風と潮を待ち、フヨの入り江から東に漕ぎ出して大海おおうみに出ると、はじめは息慎ソクシンの島を後方に捉えながら岩根に囲まれた岬を回って力一杯漕ぐ。
 沖に出たら、風にもよるが、左手から来る潮の流れに逆らわないように、そのまま南を指して陸から離れるように漕ぎ続ける。昼頃、帆が陸からの風を捉えたところで漕ぎ手ははじめて一息付ける。
 西向きに流れる潮路からやっとの思いで逃れた後も、風を頼りになお南に向けて梶を取り、また、漕ぎ進む。東に戻ろうというのだから、これでは方角が違う。それを知っている舟子たちが言う。
「カケルにしかできない梶取りだ」
 これを三日ほど続けると、前触れなしに舟首へさきが持ち上がり、漕いでもなかなか進まなくなる。ここが潮目の変わるところだ。
 そのまま漕ぎ続けたのでは体がもたない。うまく南寄りの風を捉え、そこで漕ぐ手をしばらく休め、潮の流れと風に任せてゆっくりと北上する。
 ヒダカに戻る五日目を無事に終えると、大風に遭うことがなければ、あとはいつも同じように進む。ヒダカに向かって流れる潮に乗り、星と日を頼りに東寄りに進む。
 タケ兄が舟首を離れて帆と梶の扱いを引き継ぎ、カケルを小屋で休ませる。トキ爺が水瓶みづがめから大きな竹杓たけびしゃくにすくって「水はどうだ」とみなに勧めて回る。
 漕ぎ手の疲れを嗅ぎ取って、小屋の前に座るトキ爺が、
「今日の夕餉は粥だぞーっ」
 と、みなに告げる。ほぼ三日に一回のことだ。
 前の晩、水に浸して藻塩を一つまみしておいた鍋の中の玄米コメが薄い粥に煮上がるまでの間、舟の上は火鉢からわずかに漏れる炭火の熱であぶる干し魚の匂いに包まれる。
 手隙てすきの者たちが夜の仮り寝に備えて、いつものように丸木の舟から水をき出しはじめた。
 漕いで、休む。
 ――今日も雨は降らなかった……。
 などと考えながら浅い眠りにつくということを繰り返すうちに、進む先に出羽の鳥見山か北の島の渡湊わたりみなとの手前にある奥尻島が見えてくる。

「あの小さい島は何だ?」と思ったら、たいていは飛島とびしまだ。
 どれになるかは、風の向きと強さ、それと、南から北へと舟が進む向きを変える位置、つまりは梶取かじとりの腕次第だ。
 真っすぐ東に向けて梶を取り、帆の向きを変えるカケルが山や島の影を目の端にとらえると、前に声を掛ける。舟首へさきのタケ兄が梯子はしごの中ほどまで上り、目をらして確かめてから、「鳥見とりみっ」とか「白上しらかみっ」と声を上げる。
 いままでカケルの舟ではなかったが、もし奥尻島の白い崖と小高い山が見えたら、十三湊に戻るまでにはあと三日の風待ちとつらい航海とが残る。
 一年に二度、三度と行き来するというのに、まぶしい朝の光をついてひときわ高い鳥見山とりみやまの二つある山頂いただきが一つにくっついて見えたときには、舟子の誰もが吐くべき息を呑み込んで沈黙し、大きな歓声がそれに続く。この安堵あんどの瞬間は、このたびも無事にヒダカに戻れるとみなが確信するときだ。
 ――あと二日で十三湊だ!
 肩を叩き合って喜び、かいを握る手にいよいよ力が入る。

 男鹿おがの岬が見えてくる辺りからは十三湊に向かう潮の流れが助けてくれる。
 白上しらかみの山並みを回ってしばらくすると、深浦ふかうらの海に突き出た岬と岩に囲まれた入り江が見えてくる。日が暮れ掛かっていれば帆を降ろしてそこに立ち寄り、岩陰で夜明けを待つ。まだ日があれば、いよいよ帰って来たと半分は潮と風に任せ、岩木山の尖ったいただきをときどき目で確かめながらゆったりと漕ぎ、十三湖とさのうみ水戸口みとぐちまで進む。

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