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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[098]ゾチロムとはなんだ?

第5章 モンゴル高原
第1節 林の中の出会い
 
[098] ■5話 ゾチロムとはなんだ?
 そろそろ伯父おじのメナヒムが顔を見せる頃合いだった。どう話せばいいかと迷いながら、エレグゼンはなおも、冷め掛けたおきをいじっていた。
「ナオト、お前は先刻さっき、なぜ海をダリャーと言った?」
「お前の顔が、ソグド人のようだったからだ。それに、持っている短剣はペルシャのものだとお前は言った。だから、知っているソグドの言葉を口にしてみた」
「そうか、れの顔はソグドのようか。確かに吾れの親は胡人こじんだ。吾れの血は胡人の血なのだ。だからソグドに似ている。だが、そういうお前もソグドのようだ」
「ソグド人に似ているとは、ヨーゼフ爺さんにも言われた。弟のダーリオにそっくりだと」
「そうか……。ヒダカの男は、みな、お前のような顔付きをしているのか?」
「いや、吾れの顔は変わった方だろう。よくは考えたことがない。自分の顔を見ることなどないからな。ゾチロムは、人の顔付きが気になる方か?」
「ゾチロム? ゾチロムとはなんだ?」
「お前のことだ」
「はははっ、吾れはゾチロムか。そのゾチロムは人の顔付きを気にしそうだと思うのか?」
「ああ、思う。お前の顔は、他の匈奴とは違っているからな。気になるに違いない。吾れがこれまで見た匈奴たちは、お前と違って平べったい顔の者が多かった。ヒダカ人と同じだ。それに、お前と違って髪が黒かった」
「お前、前に匈奴を見たことがあるのか……。どこで見た?」
「海に近いフヨの入り江で若い匈奴を四人見た。そのときはわからなかったが、いまになって考えれば、たぶん匈奴だったのだと思う。お前と同じ長い皮のころもを着ていた。それと、フヨのハルビンの東にある川の岸辺でも馬に乗る匈奴を何人か見た。一人は顔に大きな傷があった」
「……」
「匈奴の顔は、みな、怖そうだ」
「怖そうだ……?」
「そうだ」
「そうか、怖そうか。それで、その者たちには話し掛けなかったのか? お前は匈奴を探しに来たと言ったが?」
「若い匈奴が話をしようとしてくれた。しかし、互いに言葉がわからなかった。傷のある匈奴は吾れが探している匈奴とは違った」
「そうか。違ったか……」
 ぷいっと横を向いたゾチロムはしばらく黙って戸口の方を見ていたが、唐突に、
「吾れは胡人の女をめとる」
 と言った。ソグド語ではあっても何のことか意味がつかめず、ナオトはただ黙ってエレグゼンを見返した。

 しばらく押し黙った後で、エレグゼンが口を開いた。
「お前が知っている胡人はヨーゼフだけか?」
「いや、爺さんのところでもう一人会った。セターレだ。あとは、名前だけだが、ウリエルも知っている」
「ウリエル? ウリエルなら吾れも知っている。昨日会ったばかりだ。小さいとき吾れは、冬の間はウリエルの家で過ごした。お前が林の中で会った伯父のメナヒムは、昔、吾れを商人にしようと考えていた。そのために吾れはウリエルに預けられ、ソグド語はそこで覚えた。ここから馬で少しのところに住んでいる」
「……。吾れは、そのウリエルに渡すものを預かってきた」
 そう言って、ソグド語が覗いているヒツジの薄革を指差した。
「それがそうか。ヨーゼフ爺さんはいまどこに住んでいる?」
「フヨの入り江。海が見える丘に一人で住んでいる」
 ――これは明らかにおかしい!
 そう、エレグゼンは考えた。そして押し黙った。
 ――さすがに、これはたまたま起きたことではない。たとえ神様がいるにしてもだ。吾れが知るヒダカの男はこのナオトだけだ。そのナオトが知っている胡人は数人にすぎないという。そしてその胡人の一人が、なんと、吾れがよく知るウリエルの父親ヨーゼフだと言う。そんな奇妙なことがこの世にあるものか。
 このナオトという男は、何か事情があってこの匈奴の地に送られてきたとメナヒム伯父はきっと疑う。しかし、誰が、どういう理由わけでこのような者を送ってよこしたというのだ……?

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