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神田川の秘密27の4 僕らに青春をくれた喜多條忠氏を悼み、心よりありがとうを申し上げます

二十七の4 僕らに青春をくれた喜多條忠氏を悼みます

 作詞の喜多條忠が「神田川」という本(1974年出版)を書いている。
19才から20才に書きつけた日記と詩をそのまま載せたもので、
神田川というレコードのヒットが出版の動機になったと本人が書いている。
そこに下宿のことも出てくる。

「・・・バアさんの下宿は通称張り紙屋敷・・・この張り紙こそがバアさんのバアさんたるところであります。
一、ガスのせんは必ず二カ所止めること 
一、お湯は入用だけわかすこと 
一、マッチをすってからネジをあけること・・・
一、鼻水は紙でかんで下さい
一、夜十時以後の雑談はお互いに止めて下さい・・・」
張り紙のことが延々と4ページにわたって書かれている。昭和40年代の東京の下宿は概ねこんな感じだった。

 二人で行った横丁の風呂屋→→→
もちろんスーパー銭湯ではない。健康ランドとも違う。
どこのアパートにも風呂がなかった。みんな銭湯に通ったのだった。
石鹸、タオル、洗面器。三種の神器を持って、番台に木戸銭を払い、風呂に入る。大型の浴槽に浸かり、洗い場では蛇口の前に男の裸体を並べて座った。
隣の男の逸物を盗み見しながら体を洗う。温泉旅館などのあの大浴場のイメージだった。
 脱衣場は大部屋で、瓶の牛乳なんかを売ったいた。浴槽の正面の壁に富士山の絵が描かれていた。どこの銭湯に行っても大抵が海と富士山で、それ以外の絵を見ることはほとんどなかった。銭湯を出てアパートに戻る頃には体はすっかり冷えている。こんな情景が当たり前だった時代が「神田川」の歌の時代だった。

 北中正和という音楽評論家が「時代を映したポップスの匠たち」(2017年)で神田川の歌が出来たエピソードを紹介している。南こうせつは喜多條から歌詞を電話で聞き取ったそうだが、聞いている途中からメロディーが浮かんできたとのこと。
作詞家と作曲家とが一体になっていたんだ。電話のやりとりというのも時代を表している。公衆電話なんだろうな。
 
 喜多條の本に、12月12日の日記が載っているが、こんなくだりになっている。「下宿に帰ったが、やはり手紙は来ていなかった。もう、この前の手紙が来たときから半月がたってしまった。僕は泣かない、耐えている。泣いてしまったら、言ってしまったら、おしまいだ。泣いてしまったら、この重さがどこかへ行ってしまう。・・・電話をかけてみようかと思ったが、それもやめた。あと数年は、これと同じような、いや、それ以上の苦しみが待っているはずなのだから」と。

 喜多條は恋人からの手紙を待っていた。
 手紙が来ない。もどかしい。思えば思うほど、想いが募る。
アナログ時代の恋は濃厚だということが痛いほど伝わってくる。デジタル時代の今は、ラインで顔を見ながらコミュニケーションをとる。メールで、パソコンで情報を交換し合う。もう、手紙の時代に戻ることはできない。携帯電話という強い味方が常に側にいてくれる。
万力で胸を締め付けられるような、苦しくて長い、身の置き所のない長い長い夜はもう来ない。

 喜多條は『川』というタイトルの詩も書いている。
「夜になって
 大正製薬の煙突についているネオンが消え
 アパートの下を流れる神田川の水が
 白い泡に変わってゆく・・・」

都会のゴミゴミした街を縫うようにして流れる神田川には家庭の雑排水や洗濯水が流れ込み、川面に白い泡を作っていた。アパートの窓を開ければ、汚れた神田川からは異臭さえ立ち登ってきたと想像できる。そんな暮らしの一コマ、一コマが、神田川の歌に込められている。

 老人にとってはいつも、昔は良かったんだ。
 例え神田川が白い泡を吹き、ドブ臭い匂いがしていたとしても。
 ついでのことだが、喜多條が住んでいたアパートは豊島区高田3丁目で、歌に出てくる「横丁の風呂屋」は新宿区西早稲田3丁目の「安兵衛湯」だったということがわかっている。神田川の歌碑が中野区東中野の末広橋脇に建てられているのは、思えば不思議な感じがするが、それはどうでも良いことだろう。

 川旅老人に言わせれば、歌碑についても一つ不足がある。それは記譜がないこと。歌は詩とメロディーで成り立っている。歌詞の二番が歌碑に彫られていないことには妥協できるが、記譜がないのは歌として未完成だし、片手落ちになる。言葉だけが歌を構成しているわけではないのを、誰もが知っている。とはいえ、歌碑を読んでいたら、いつの間にか頭の中で歌っていた。
 ♬あなたはもう 忘れたかしら・・・赤い手ぬぐいマフラーにして・・・

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