神田川逍遥・老人の秘密6
六 江戸の復興
焼け野原となった江戸に課せられたテーマは『復興』であったはずだ。
江戸の都市構造改革のために幕府が火を放ったという「幕府放火説」まであるくらいだから、江戸の再建は時の為政者の頭の中にはすでに問題意識としてあったと推測できる。実際、吉原遊郭には前年、幕府によって日本橋界隈から浅草方面への強制移転命令が発せられていた。
江戸の復興がどのような手順を踏んで、いくらの費用をかけ、誰が指揮を取ってなし遂げたのだろう。大火の有った年の7月、明暦は万治(3年間)と改元され、さらに寛文(12年間)、延宝(8年間)と続いていく。大火の後の大江戸殷賑の土台はどのように創り出されたのだろうか?平成23年(2011年)3月11日に起きた東関東大震災の復興と明暦の大火の復興とは規模も時代も違うが、大災害という点では一致する。復興過程を比較検討してみると時代を超えた為政者の意図や考え方の違いを知ることができそうだ。
ついでながら、江戸・東京の大災害は大正12年(1923年)9月1日の関東大震災(死者10万5000人)、昭和19年(1944年)3月10日、B29による東京大空襲(死者11万5000人)、それに明暦の大火(死者10万人とも)の三つを指すようだ。なお、この時代の江戸の人口は町方12万6000人~25万2000人。武家を加えた総人口を25万人~40万人と推定した数字が出されている(中部よし子著『東めぐり』1967年)から、焼死者10万人はとてつもなく大きな数字と思う。実際の死亡者数を3万人~7万人程度と見る数値も発表されている。今となっては死亡者数を正確にカウントするのは難しい。
明暦の大火が起きた時、将軍は3代家光から家綱に代わっていた。家綱は病弱だったらしく、万事を側近や老中など幕閣に任せていたと言われているが、11歳で将軍職を引き継いだばかりの家綱はこの時16歳、家光以来の遺臣・幕閣が大火の復興計画を推進したのも無理からぬことと思える。主要な人物は、3代将軍家光から家綱の補佐役を依頼されていた保科正之、それに老中松平信綱、同じく老中の阿部忠秋らで、保科正之は家康の孫、家光とは異母弟にあたる人物である。正之は信濃・高遠藩主、出羽・山形藩主を経て会津藩・藩主となったが、幼年期には出生が秘匿され不遇の時期を過ごしている。松平信綱は武蔵国に生まれるが他家に養子となり松平を名乗る。二代将軍秀忠の長男、家光が生まれると家光つきの小姓(合力米3人扶持)となった人物。秀忠の死後、家光に取り立てられ、寛永5年(1628年)、相模国・高座郡に所領を与えられて1万石の大名となっている。寛永9年(1632年)、信綱は老中に取り立てられた。いわば前期江戸時代の出世頭で、島原の乱を鎮圧した功によって川越藩(6万石)の藩主となり、寛永15年(1638年)に老中首座となっている。伊豆守を名乗り、次々に湧き出るアイデアから知恵伊豆と称されていたそうだが、小江戸と言われる埼玉・川越の基礎を作り、野火止用水の開削をして農業の基盤を整えた。信綱は数々の逸話を残している。
知恵伊豆に勝る頭の回転だったらしく、逸話も多い。
明暦の大火をめぐってのエピソードが『天享吾妻鑑』に書かれていて、拾い読みした。
「小笠原信濃守長次ハ自身鎚ヲ手ニ持テ牀机ニ腰ヲカケ居タレハ家人モ皆鎚ヲ持テ其傍ニ居タリ。・・・門扉ヲ鎖シテ警固スルコト厳シ。(兼松下総守正直が公方様が西の丸に渡ったので老中も諸役人も、諸大名も供をして西の丸に渡った)御自分ニモ早ク上處ヲ去テ彼ニ来リ給エト云。長次答申ハ我己兼日ヨリ蒙二厳令一此御門ヲ守衛ス、然ニ此ニ望ンデ不蒙台命シテ警衛ノ地ヲ去ランコト、頗ル勇士ノ本意ニ非レバ、焼死ストモ不可去ト申切テソ控ケル。
(兼松はこの申し越しに感じ入って、阿部忠秋に報告)阿部豊後守忠秋ハ『信州ノ所言誠ニ義ニ当レリ、然レトモ西ノ御丸へ(公方様が)渡御ノ上ハ早ク此地ヲ去リ・・・」他へ移れと命じた。
この一言で、信濃守本人の命も家中の命も助かった。
また、酒井讃岐守忠勝が「この大火は不審火でないとは言い切れない、公方様を早く彦根中将井伊直孝の下屋敷にお移りいただくようにと提案し、評定一決したが、阿部忠秋は承知せず、一切を自分が責任持ってことに当たる。関ヶ原の合戦以来60年、徳川の治世も4代となって、揺らぐべくもない。この大火に乗じて反乱を起こしても決して成功しない。公方様は西の丸を離れるべきでない、と主張。「阿部豊後守家人等ハ主人ノ家屋ノ消失スルヲ不顧(レ点)、弓鉄炮鎗長刀ヲ手ニシテ、西ノ丸ノ城下ニ来リテ門外ヲ守衛ス」と。ひとつ間違えば切腹や蟄居、お家お取り潰しもあった時代、この腹の座りように驚く。
すなわち、老中の主なメンバーに知恵があり、機転が効き、時代を読み取る力があり、肝も据わっていた。明暦の大火の後始末、復興をやり遂げる優れた指導者がいたのだった。阿部忠秋も大きな藩の出身ではなく、父親の阿部忠吉は秀吉の小田原攻めに参加しているが、大坂夏の陣では徳川方について出陣している。徳川2代将軍秀忠に支え、ようやく5000石の大番頭となった身分だった。忠秋も実績を重ねて大名となり、閣僚となった。家綱が幼少で将軍職に就いたこと、病弱であったことも彼らに活躍の場を与えたともいえるが、関ヶ原の合戦から50余年、戦国時代の能力主義、実力主義による登用の気風が未だ残っていたのであろう。決済のスピード、庶民への救済措置、復興資金の調達・運用など見るべきものが多い。問題が起きた時こそ、為政者の力が問われるのは洋の東西を問わず、いつの時代においても同じだと思える。
余談だが、「仙台堀」のところでたびたび登場することになる仙台藩2代藩主伊達忠宗のエピソードを添えておきたい。
「異常大火と見てとった忠宗は、常の供の他に江戸馬上松本出雲宗成番一組を召し連れ、(中屋敷にいたが)上屋敷に行って立退を命じ、それより江戸城桜田門に出向き、詰合の旗本・役人を通じ、公方のご機嫌を伺い「特ニ此節御用モ有レハ仰付ラルヘシ、某カ四箇所ノ屋敷モ焼亡ノカレサル様子ニ見ユルニ付イテ、伊達遠江守(宇和島藩主・忠宗の兄)青山ノ第ニ引除クヘシ、其意得預カルヘキノ趣ヲ老中ヘ仰入ラル」其上で、青山に立ち退いた。其時は未だ諸大名は一人も御機嫌伺いをした者がなく市中のものは「陸奥守殿御用心ノ為ニ甲冑ノ武士五百騎ヲ召具シ、桜田口ヲ警護シ玉フ、伊達殿故ニ諸人皆心安シト悦合ヘリ」と。
この頃の仙台藩上屋敷は外桜田にあって、桜田門とは目と鼻の先であった。
大火の後、江戸は食べるものも着る物も、寝るところさえ失った庶民で溢れていた。大火に命を落とした人も多く、街路や堀には放置された死体が無数に転がっていたという。大火に逃げ惑い、離れ離れになった肉親を探す人々も多くいたが、焼け焦げた死体は男女・老若の区別さえつかなかったと『むさしあぶみ』は言っている。怪我人も多かった。焼け爛れた皮膚をむき出しにした人や髪が焼けてしまった人が街に溢れていたというから目を覆いたくなる惨状だったろう。
大火から2日後。1月21日、幕府は「お救い場所」を府内に6ヶ所開設している。黒木新書によると、日本橋から南側を内藤帯刀忠興(陸奥国磐城平藩藩主)、石川主殿頭憲之(伊勢亀山藩主)に、北側を六郷伊賀守政晴(出羽国本庄藩藩主)と松浦肥前守鎮信(シゲノブ肥前国平戸藩藩主)に命じて粥を炊き出させたもので、初めは9日間を予定していたが、2月2日まで延長し、その後更に1日おきに12日まで救済措置を延長している。幕府が放出した米は合計900トンに達していた。「・・・しかる処に、御城の西の方山の手すぢ、わずかに残りし大名、小名よりしておもひおもひに、あるひは日本橋、あるひは京橋、方々におひて仮小屋をたて、奉行をそへられ、粥を煮て、うえたるものに施行(セギョウ)せらる。又御城中よりは内藤帯刀、松平肥後、岩木伊予、これらの人々を御奉行として御成橋、新橋、日本橋、筋かひばし、増上寺前に仮屋をたて、かゆを煮させて飢人窮民を施行し給ふに、江戸中の老若男女あつまりて給はる」(むさしあぶみ)。
食器から鍋釜まで失った人はやけ残りの器を使い、それも入手出来ない者は両手に粥を受けてすすったと『むさしあぶみ』は言っている。
幕府の災害復興の手始めが救民措置であったのは十分であったかどうかを別にすれば、360年以上前のこと、封建社会の真っ只中にあった時代の施策としては納得がいく。由井正雪の乱などがあって、世の中に不穏な空気が流れていたため秩序の維持を旨としていたかもしれないが、幕府備蓄の米蔵が全焼して焼け米となってしまった備蓄米も幕府は全てを放出している。特権的な武士階級の支配する時代ではあったが為政者には一般庶民の暮らしのことが頭にあったことは事実だろう。
木製の橋のほとんどが焼け落ち、堀や川の多かった江戸の町は交通インフラが遮断されていた。幕府は船橋を仮設し、応急措置を講じている。両国橋もこの後すぐに新しく掛けられている。米価の統制、大名の帰国、地方藩主の入府義務の緩和(参勤交代の大原則の変更)、旗本への貸付金や下賜金の付与と経済対策も矢継ぎ早に打たれている。その上で、幕府がもっとも手をつけたかった都市構造の大改革に打って出たのだった。
注目されるのは、消失した江戸城の天守閣は再建されなかったことである。
江戸の再建にあたった保科正之、松平信綱、阿部忠秋らは開府家康以来の天守閣再建を唱える声を抑え、「江戸城に天守閣は無用」と述べている。天守閣は地方大名や有力藩に対して幕府の威厳を示し、下々に威圧感を与えることはできても日常の政務にはあまり役に立たない。重曹櫓の建築物には莫大な費用もかかる。江戸・徳川の体制は武威を示す時代から秩序を保つ時代へと変わろうとしていた。戦争の時代から、平和の時代へ。軍事優先から民事・復興優先に転換しようとしていたのだった。幕閣の主要なメンバーは時代の転換点を読む事ができた。価値の転換に順応できた。軍事費を削って庶民救済費に回したと言える。利己心や利権、既得権益に拘泥せず、新しい未来へ向かう革新力があったことは確かだ。こうして江戸城は天守閣を待たない城として再建された。
復興の手始めに、江戸城近辺に固まっていた御三家を含む武家屋敷を移転させた。移転先としては中心部にあった寺院・神社を郊外に移転させた空き地を与えている。寺社の移転先の用地は幕府が提供している。この時吉祥寺も水道橋の袂から、駒込に移転したのだった。それ以来現在に至るも吉祥寺は文京区本駒込3丁目にある。