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神田川・秘密発見の旅 後編23 仙台藩は本当の収入を隠していた?

後編23 仙台藩は本当の収入を隠していた?

 ところが・・・、
「(仙台藩は)21郡禄高60万石あり、これに常陸国竜ヶ崎の1万石、近江国蒲生郡の5000石を加え都合61万5000石となっている。けれどもこの額高も名目に留まって、その実収額は100万石あるいは150万石又200万石などという雑算も行われていた」(仙台封内券書・讀書餘滴・東潜夫論)

「本邦諸侯ハ仙台最モ大ナリ。二百五十万石ニモ過クヘシ。加賀長門此ニ次ク。・・・萱場氏章カ宝暦中ノ調査ニヨレハ、陸奥ノミニテ米百五十万八千四百三十石二斗八升八合四灼、雑穀五十二万石九千四百七十六石七斗六升二合、計二百十一万七千九百六石一斗五升一合ナリ」と米の産出量を誇っていたのだった。
(東北産業経済史による)

 これらの事情を勘案すると、次々と引き受けてきたお手伝い普請は藩財政を窮地に追い込んでいただろうか?と思ってしまう。これだけの石高があったとしたら慢性的な歳入不足を補うために、借金に借金を重ねていたとは思えない。どうも腑に落ちない。本当の石高はいかほどだったのか?なぜ借金が膨らんだのか?疑問が湧いてくる。
 神田川開削を含む、度重なるお手伝い普請は仙台藩の屋台骨を芯から崩す元で、経済力の衰退が政治・軍事の衰退につながり、戊辰戦争でなす術もなく薩長連合に敗れ去った現実をどうみたら良いだろう。仙台藩は生産高を隠していたのだろうか?

 実態を調べに仙台に来た以上、これを把握して帰りたい。
 仙台市・せんだいメディアテーク(仙台市青葉区・T:022-713-3171)のホームページでは仙台藩の藩財政について8項目に分けて説明している。

第一に、藩士の数が多く、人件費がかさんだことを挙げている。
第二は参勤交代の諸費用(江戸と仙台92里は片道7泊か8泊を要した)と江戸藩邸
   の維持管理費(1万3000両・年)の多さを挙げ、幕府や諸大名との間の交際
   費もバカにならない出費だったとしている。
第三に、お手伝い普請の諸費用を挙げている。特に、日光東照宮の建設手伝い、
   江戸城普請手伝い、神田川開削工事の手伝いなどを例挙しているが、その後
   に行われた江戸市中の諸河川の改修工事(1676年・安永5年)には
   22万両が費やされ、藩財政に60万両の借金を余儀なくされたと述べてい 
   る。
第四は天災による出費で飢饉・水害・火災・地震などを挙げているが特に
   天明と天保の飢饉は多くの餓死者を出し、米の減産で藩財政に大きな打撃を
   受けたと説明している。幕末に至って、北海道(蝦夷地)の警護・防衛に多
   くの支出を強いられたのも財政を圧迫した原因だったと述べているが
   特に根室・国後・択捉の防衛には現地の駐在本部を置き、藩士63名が厳し
   い自然環境の中で命を落としたという。
つまり、藩の財政は致命的に苦しかったことを前提に解説さえている。
なぜ、過大な石高が喧伝されたのか、不明。


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