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神田川・秘密発見の旅 後編44 浅草橋・左衛門橋界隈・古着問屋

後編44 浅草橋界隈・古着問屋

岩本町で店の荷物整理をしていた女性に声をかけた。
「こちらは古着を扱っているんですか?」
「古着も新品も扱っていますよ」
「ご商売は長いんですか」
「そうね、明治からだって聞いてるわ」
下町だね。通りすがりの人間が余計なことを聞いてくる、という顔をしていない。オーナーなのか、従業員なのかはさすがに憚って聞けなかった。歩道には「柳原通り」という嵌め込み標識が見られた。商品は店の前の歩道にも広げられていたが、この道を通る人は見かけなかった。

歩道から店内にかけての展示品
問屋さんらしい荷物の梱包

 美倉橋の所在地は千代田区東神田2丁目。
橋を通過して神田川を抜けていく大通りは清洲橋通り。美倉橋を越えてすぐの右岸に、森下ガーデンホテルがあった。橋の手前の左岸沿いに「マンデーアパートプレミアム(1泊4500円~5000円)。

 ようやくに左衛門橋にたどり着いたが、これ以上は歩けない気持ちになっていた。左衛門橋のたもと、神田川左岸にはサクラガーデン浅草橋、石畳ホテル(Stone Hotel)の2軒のホテルが並んでいた。

神田川の下流域にかかる橋はどこも立派な橋だった

 かなり疲れた。
 ホテルにチェックインして足を伸ばしたい気分だった。川を見ながら歩くのと、ビルの谷間を歩きながら橋に差し掛かるとようやく川を眺められるのとでは疲労度が違う。高いビルを見ながらアスファルト道を歩くのは人に疲労感を高めさせる。
 左衛門橋の中央部から下流を眺めた。
 そこには今までの神田川にない景色があった。

川・ビル・舟の組み合わせ
神田川最下流の景色

 橋から少し下がった右手に水色のランチが舫っていて、「三浦屋」の屋号と「警戒船」の表示が見えた。その後ろには赤い屋根の屋形船が係留されている。左手の川沿いには次の橋、浅草橋まで、いや、良く見ると橋を越えてさらに下流に伸びる岸にまで連続して屋形船や釣り船が繋がっていた。右岸にも何艘か係留されている舟があるから、その数は十艘以上だろう。

神田川の遊覧船、屋形船が舫っている
(2019年1月撮影)
ほぼ同じ場所で撮影
(2022年11月撮影)

 ここが江戸時代から続く船宿群なのだ。
 柳橋は江戸の粋人たちの遊び場で、夜ごと・昼ごと船が行き交い、お花見、花火見物、夕涼み、柳原での遊興で賑わったそうだ。遊んでいたのは上級武士(高級官僚)や豪商・富裕な町人たちだったろう。下級武士や一般庶民には縁遠い場所だった。しかし、江戸期に生まれた遊びは、やがて商人、職人、町人へと広がって、新しい町人文化や浮世絵、芝居見物を楽しむ人々が増えていったことも想像できる。

 江戸時代前期はともかく、徳川家綱、綱吉時代ごろから8代将軍吉宗(在位1716~1745)時代頃にかけ経済構造が米中心から貨幣中心に移行する時期で、一般庶民の暮らしにも変化が現れていた。

「大江戸古地図大全」の解説記事を読むと江戸っ子のグルメブームが始まったことが書かれている。屋台・小屋掛の煮売り・焼き売り、蕎麦はもちろん江戸前のうなぎの蒲焼、天ぷら、寿司、汁粉、団子、焼きイカ、茶飯、麦飯、大福、水菓子などが売られ、煮売り屋は酒を出す店(居酒屋)へと変化して行った、と述べている。料理茶屋、貸し席などは武家や文人、絵師などに使われていた、と書いている。時代(江戸期の社会構造)は動こうとしていた。

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