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Acupuncturist・Lady(鍼灸師・娘)no1

「今日も我が家は」

事の始まり

それは2010年の5月の連休に入る数日前の事だった。

相次いで私の両親が入院することになったのです。

父は8年近く前より脳溢血の後遺症のため半身不随となり母は自宅介護を私は通いでそのサポートを続けておりましたが母も私も先の見えない介護で溜まり続けたストレスがあったのだと思うのです。

母は元来、看護師バカで私の言う事など聞いてくれる人では無く自分の判断が常に正しいとと思っている人なので、朝方から具合が悪かった父を「血糖値が下がったからだ」と言いはり「それは救急車レベルでは?」と言う私の意見など聞いてくれないのでした。

結局父は2度目の脳疾患で脳梗塞を起こしていて国立に入院。

ふらつく父を支えた時に肩をぶつけて,その未明に自分は心筋梗塞を起こしたのに肩をぶつけたからと言いはり、3日間放置して休日診療へ、そして国立から直線距離上にある大学病院に救急搬送されたのです。

当然、私は途方に暮れるしかなかったのです。

大学病院のDr.ヘリがテスト飛行をしているさまを眺め何も考えられずにいるのでした。

父は緊急事態からは脱していたが高熱を出していて、母は今の今に心臓が止まるかもしれないと言う医師の顔が浮かんだが、正に思考停止で何一つ理解していないのでした。

私は一人娘であり、私の家族以外は誰も相談出来る人はいなかったし何をどう?考えなければいけないのかわからないでいた。
何回も書かされる緊急事態時の延命措置のチェックリスト。

「どうする?どうすればいい?」

指図魔の母の元で育つた私は動け無くなっていたのです。とにかく母は元気でした。とりあえず入院に必要なものと「素麺が食べたい」と言うので次の日より、私はそれらを準備すると、たまたま就職活動中だった娘が「ママはバーの所へ行って、パパと私がジージの所と雀の猫ちゃんを世話してからママの所へ行くから。」と言った。

国立と直線距離上にある大学病院のちょうど中心地点にある雀の宮の実家には母が可愛いがっている猫ちゃんが2匹残されていたのだった。

私は何をどうすればいいのかわからなくて全く動け無くなっていたのを娘は私が母の所へ行ける様にしてくれていたのです。

まだまだ子供だと思っていた娘が朝に指図してくれたおかげで私は迷う事なく行動する事が出来たのです。

本当に娘がいてくれて良かった。
ただ目の前の事に集中するしか無かった私は先の予測など出来ずにいたのです。
当然、周りの親戚達から状況説明を求められ、自分でもどう説明していたのか分からなかったのです。

母の状況は深刻だった医師の説明は絶望的であったのだった。それでも母は元気で私をアゴで使い頭では理解していても幾つもの地雷が点火する手前までになると持参していたアロマオイルのオレンジやラベンダーの香りを嗅いで落ち着かすのだった。

どうしょうもないフラストレーションに爆発一歩手前なのでした。

後は唯一の友人のMちゃんに電話して「気が狂いそう!」と連絡していた。
状況を察していた彼女は何時も静かに聞いてくれていたのです。

それから1ヶ月ぐらいで母は私の腕の中で息を引き取るのでした。

結局、延命措置を全て拒否するも何もなくあっと言う間の出来事でした。

そして母の葬儀中にお墓の問題や父の弟(叔父)との父を巡る争奪戦が待っているとは思っても無い出来事が起こるのですが、この時も,ともすれば気弱に流されてしまいそうな私に喝をいれ事なきに出来たのも娘のおかげなのでした。

私は泣くに泣けない日々を送っておりました。

全ては「何で⁉️」の連続なのでした。

母が亡くなって父の世話に追われて全てが落ち着くまで時間がかかりました。

娘とゆっくり先の話しがしたかったがなかなか出来ないでいるのでした。

しばらくの間、大きく深呼吸をすると泣きじゃくった後の「ククク」と迫り上がるような状況が続いて私は泣きたいのに泣けていないのだなと思ったのでした。

ふいにお風呂などで我に帰るとむせぶ様に泣くことが続くのです。

母の死後に起こる東日本大震災を迎えTVを見ては泣いている私に「もうTVを見るな!」と家族が言うのでした。

母が亡くなって半年以上も経っているのに心はまだ、だだ中に夢から覚めて無い様な気持ちなのです。

自分でも壊れていると感じていました。

私は何で泣いているのか自分でも分からなくなっていたのです。

母が亡くなってからちょうど就職活動をして側にいてくれた娘、彼女がいてくれたからこの私の最大な出来事の波を超えることができた。

以前より彼女に何か資格を持つ事に興味が無いか聞いていたのです。

ただ単に就職活動するより、資格を持った方がと考えていたからなのでした。

なので以前から私が気になっていた鍼灸師の専門学校の話しをしてみていたが、あまり反応する事もなかったのに、その後,自分で調べて資料を集めいつの間にか試験をして9月に合格し入学が決まった。と言う報告を聞いてそれは大宮にある新しくできた学校だった。

私の知らない間に進められていた事ではあったが何か私にも明るい兆しの話しで嬉しく思ったのでした。


3・11を迎えて入学式はどうなるか危ぶまれていたが無事に行われて花見は自粛された東京へ娘と上野動物園で待ち合わせした。

私も気晴らしがしたかったのです。

私は出来るだけ協力を申し出たのだったがことごとく断られ、娘は子離れしようとしているのでした。

何十年ぶりの上野動物園はちらほらと桜がほころび動物達とのひと時に癒されているのでした。

入学式が終わり朝にお弁当を持たせようとすると「私、幾つだと思ってるの?今日は有り難く持っていくけど、もういいからね。」と言うのだった。

私も娘と一緒に入学したかった少しでも前向きな新しい世界に向かいたい気持ちなのでした。

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