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ジンセイ旅的ザレゴト

「進路」というコトバ。年月を重ねると毎度意味が変わって、中学生のうちは高校進学、高校生のうちは大学進学、で、大学生になると就職という意味になるわりに、結局いうことは変わらずに、やけに近視眼的。そしてその時期を過ぎると一切語られなくなる。

 みみっちいよ。進路って壮大なコトバで壮大なこと抜かすわりに、昼飯は松屋に行くか、サイゼに行くか……みたいな話をする。

 ボクは本当の進路って「死」にしかないと思っている。結局僕たちが絶対に進む道は、それへの一本線じゃないか。そしてそこに向かうまでの旅こそ人生なんだ。これを無視して、「シンロ、シンロ、タイセツ!」と喚いて松屋かサイゼを選ぼうって、そりゃヒステリーみたいなもんだと思うね。

 センセや就活アドバイザーにとっては松屋かサイゼか、そしてその結果が一大事。でもそれ別にボクたちのためじゃあないよ。彼らのためなんだ。「生徒の進路は決まりました。全員死です」なんてどの学校も言い出したら、HPの進路実績の欄はどうでもよくなるね。そんなことしたら「あの大学、企業に進めるここに決めた!」というカモが入ってこなくなるから、それは避けないと。センセたちやアドバイザーさんのおまんまの量が減るもの。フフフ。

 しかしボクはこういうみみっちい「進路」の大切さも多少は認めるよ。目的地までは遠い。寄り道も大切。目的地だけが大切ってわけでもない。松屋で飯を食って下痢したら旅は最悪だし、それを旅の間引きずることもあるだろうさ。

 旅って、そういうものだと思う。なんか一つのことに感動したり、それを引きずったり、嫌な気持ちのまま旅を終えたり、まあ人それぞれあるのだ。松島まで旅行に行き皆が皆「松島や ああ松島や 松島や」と一句を詠むわけではないはずだし、もし同じ句を詠んだとして、全く同じ感情の中には絶対にいないはず。もし違ったとしても、違うことに苦しむ必要は一切ないし、苦しまない必要も一切ない。苦しむように説得したり、苦しまないように説得したりする必要もないわけ。ボクたちは旅の前には完全に自由だ。

 投げやりなように聞こえるけど、でも実際そうだよ。投げやりにもなるさ。旅に答えはなくて、あるのは陰鬱で暗雲立ち込める目的地だけ。

 なんだから、ボクらはボクらで旅の行程を肯定したり否定したりして、それを楽しんだり悲しんだり、ともかく大切にして進んでいくのがいいと思う。まあ、ザレゴトですよ。ボクは自分の旅の途中で出たザレゴトを、少し愛してるから、こんな文を書いてみただけだよ。ボクらを救おうとかそういうもんじゃないさ。

 ボクらはボクらの旅をするしかない。ま、頑張ろうや、自由にやろうや、旅人同士。そうしてたまに貶したり、殺しあったり、愛しあおうよ。

 

水撥ねて 川に戻りて 流れゆく
川の音のこり 川は変わらず


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