贋作小説 バカがバカをバカにする社会
最近はやりのあの哲学者の新作、チンカスだね。まるでなってない。読んですらねえけど、顔からしてカスだ。読む気もしねえ。年間センズリ人のレビューを読んだが、漢字が多い。読むうちに吐き気がして、クラクラして、ふらふらして、花になって、ニヒルに笑って読むのをやめたってワケ。漢字を使う奴はバカばっかりって相場が決まってる。だいたい、美しい日本語ってのは基本カタカナってもんなんだ。マンコ、チンコ、ウンコ。
マンコで思い出したが、日本で全然知られてないわりに最高の哲学を語る男ってのがいる。こいつが知られてないから日本の哲学は遅れてやがるんだ。名前が確か、マンコ・ヌメリゴリだったかな。イギリスかなんかの生まれで、なんとか哲学ってのをやってる。そいつ以外は偽物だと思う。哲学者はマンコ一択だ。……カントは名前がマンコに似てるから多分すごいと思う。読んだことはない。だいたいタイトルが読めないんだ。漢字が多くて。
だいたいおれは、偽物の哲学や本なんか読む必要がないと思ってる。なんでかっていうと、偽物はバカだからだ。で、どうやってバカを見分けるかというと、偽物を見つければいいってワケ。これは大分哲学的思考が必要で、これのセンスがないと哲学はできねえんだ。そうマンコが言ってた。なんの本だったかな。日本語に訳すと、――マンコの、わすれた。うん。マンコ最高だ。
ポストモダン哲学ってのがある。これはよくわかんねえ。一度読もうとしたがまず名前がダメだ。ふざけた名前のやつが何人かいる。ガタリ。本を読もうとしたらガタリ、とくる。おれはそのままガタリと椅子から転げ落ちた。チンポプラプラみたいな本だ。読んで見ると文章がよくわからん。まあどうせ大した本じゃない。
ガブリエルなんとかって流行りの哲学者がいる。あれも丸善で立ち読みしたが、文体が通俗的なんだ。通俗的というのがなにかわかんねえんだけど、おれは一行読んで通俗的だと思った。本を閉じて、屁をこいて、去ったよ。どうせ大した本じゃない。文体が通俗的というやつなんだから。バカの読者にサービス。ここでおれがすばらしい文体を披露して差し上げよう。
だいたい私は「知性ある人」があの哲学者をオススメしてるのを見たことがない。名前がダメだと知性ある人が言っていた。千葉じゃなくて東京を名乗るべきだと、そいつは言っていた。ただしいと思う。バカのために、知性ある人の見分け方を教えてやる。これは簡単だ。眼鏡をかけている奴は頭がいい。特に丸眼鏡で顔が変な奴は基本「知性ある人」だ。おれは眼鏡をかけているし、鏡に映る顔は変だから、当然「知性ある人」だ。
はっきり言ってしまおう。アートやセンスというパッケージに踊るのはバカだ。賢い人ってのはだな、読まずに一刀両断、これに限る。愚しい書物に目を通す暇はない。書を捨てよ、街へ出ようという名言があるが、そういうことだ。つまり、一冊の読書もせずにセンズリをこき、マンコを崇めて、観念的なだけでなんの面白みもない小説を書き、最後には射精をする。それが賢いってことなんだ。マンコはそういってたと思う。うろ覚えだが。
社会ってのはいつも変わらずクソで、変わった変わったなんて言ってるアホのほとんどはなんら変わることもない。資本主義に飲み込まれるだのセンスだのなんだの言って、センズリだけこいて、ホントはセックスをしたいだけだったということさえわからねえまま全員地獄へ落ちるのが当然だ。人間ってのはバカすぎる。おれみたいにセンスよくなれ、雑魚ども。まずセンズリから。おれみたいに、本を読まずに本に精神的精子をぶっかけよう。運命だの社会だのと、ちいかわの鳴き声より中身のない言葉で、バカどもをやっつけよう!
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