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【落書き】27,速水御舟展レポート

まず、ダメなのである。わたしは、音楽でも絵画でもバレエでも、感想を書くのが出来ない。言葉を投げ出して仕舞うのである。そんなわたしの、鑑賞記事、いってみます。。。がむばる。

なぜ、書けないか。中学の時から、そう。空っぽのわたしは芸術家の作品に全身をうたれる、その気合といったらいいだろうか、に、うたれ、空っぽの我が身は反響してぼあんぼあん響きわたってぐらぐらするのをこらえ、普通の顔を装い普通に歩くのがやっとになってしまうのである。
言葉にしようモノなら、するっと興奮一辺倒、「ふわぁああああ!」「ふおぉおおおおおお!」「ギャラララララアラ!」「しゅしゅしゅ、しゅヴぁらしかったです!!」言語不能者、ああ、世一さんが失望される様が目に浮かぶ。。音楽の先生に、「分かるけどダメ」と言われた日から、なんの成長もしていないのである。(馬鹿丸出し、、)

さて。
感想は、、、(落ち着いて)、素晴らしかったと、一言残そう。

以下は簡単なレポート。

速水御舟。尊敬するnoterさんのオススメであるし、と、見に行った。

ちょっと寄り道をしたせいで、東京駅の地下についてしまい、東京駅を呪って、やっとこ電車にのって、レッツラゴー。そらさんが仰っていたので特急一択。快適だった。

速水御舟。その名はしらずとも、暗がりの中の炎に舞う蛾の絵(「炎舞」)は、どこかで見たことがあるでしょう。その作者である。早熟の天才。また、型にはまることを嫌ったという。画業に打ち込める幸福な境遇であった。自ら創造し、極め、破壊し、梯子を上りきっては降りてまた上る、そのような人と印象を持って行った。

まばらな人たちが、さまざまな絵を通り過ぎる。私は亀のようにノロノロと、ノロリノロリと、いろんな人に追い抜かれながら、絵を見る。作家の一生をつらぬく美意識に満ちた空間だった。炎舞はなかったけれど、菊の絵(菊花図)が好きだと思ったし、見ごたえはある。わたしはやはり花が好きだ。花びら一枚一枚が、葉の一枚一枚が好きだ。見たものを描き起こせる技術も言わずもがなだが、それを見つめ続けた愛情がうれしい。

「鍋島の皿に柘榴」の話をしよう。
血を揺さぶるのでもなく、脳天を直撃するでもなく、ただ静謐な絵がそこにあった。眼にしみこんできた。わたしは何の造詣も深くないので、絵の見方を知らぬ。せめて世一さんの視点で、と、みていた。否、それすら忘れて、みていた。素晴らしい絵は、わたしの時を止めてしまう。画家は、そして、絵の中に命を宿らせたまま時を閉じ込めることが出来るんだな、そんなことを思いながら、見つめていた。「鍋島の皿に柘榴」は、柘榴の追熟も閉じ込めて、そこにあった。永遠があった。
お皿は上から覗いて描かれているのに、柘榴は横から描かれている、それは事前に仕入れていた知識だったが、実際に見ると不思議な感覚にとらわれてしまった。自然に見える。けれど、というか、柘榴が浮かび上がって見える。

しん、と、しながら、浮かび上がる柘榴を見ていた。なぜ柘榴とお皿の接地面に影がないのか。なぜ、柘榴はその位置なのか。わたしにはわからない。ただ、もぎ取られた果実が美しかった。まだ、脳裏に焼き付いている。
しまった。余白を見るのを忘れた。柘榴に夢中だった。嗚呼。

絵の鑑賞について、以前別の媒体にてブログ記載していたとき、けちょんけちょんに言われて、(ただ色味のすばらしさを味わえばいいとか言われた)以来自信をなくしていたが、そらさんが事前調べはアリ(むしろ重要)だと仰っていて、にわかに力を得た気分になった。十人十色の向き合い方があって良いと思うけど、やはり知っていてこそ深まる感動もあると思う。

速水御舟は40歳にして腸チフスによりその生涯を終えている。

世一さん、勝手に張り付けてごめんなさい。でもわたしがつらつらと述べるより、こちらをご覧になったほうが、よろしい。ぜひ、こちらをお読みになって、絵を直に見てほしいと思う。

「炎舞」のことをちょこっと。山種美術館にあるそうだが、こちらは常設展示されているというわけではなさそう。5月20日から速水御舟の展覧会があるみたいだから、そこで出会えるかもしれない。
昭和天皇が、「この蛾の目は生きているね」と仰った絵、御舟自身が闇の色を「もう一度描けと言われても二度とだせない色」と言った絵、わたしに何が感得できるかは分からないけれど、生で見てみたいと思っている。


おしまい。

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