罪、安全、法律以前の問題ほか


スマホなど歩いてしてたら、むかしはしかられただろう。

いまは親や大人がやっている。

そんなんじゃ子どもにも示しがつかないし、当たり前文化になる。

良くは無いが、誰かが止めてくれるだろうやと思うのは受け身だが、実はそれすらも考えてやしない場合もある。

外国人が、この国は自由だというとき、自由は何をしてもよい、というのだろう。

そんなとき、性善説で向こうも分かってくれるはず、など思っていてはまずく、自由だから何をしても良いとなれば、ズルズルとどこまでもいくだろう。

他人にされていやなことは、やらないのがエチケットなのだが、最近はどうも損得なようで、やらないよりやっていた方がよい、みたいになっている。

むかしの民俗学者などは、法律は最後の手段に取っといたそうだ。

それにいたる前に、何とかしようというのが、働いていたらしく、それか今で言う忌まわしいムラの掟とかだろう。

ちょっとまえに、知識人やリベラルが、ここら辺を崩しに掛かったし、みな自由が良いとして、堅苦しいことよりフリーダムを選んだ傾向はある。

自由は責任がともなう、だけでなく状況によりやっていいこと、悪いことの微細な判断を求められることがある。

たぶん、そこを横着した結果がいまではないか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?