差別感情と対人恐怖症(名古屋城のアレ)

名古屋城にエレベーター付ける付けないの問題で、酷い発言がされたニュースを見た。

明らかに差別発言だし人権無視もいいところである。
WHOやユニセフに見せたら卒倒するかもしれない。

卒倒しなくても世界は、こういう国と付き合わないといけない、という負の感情は抱かせる。

何かを槍玉に上げておき、自分は安全地帯に居たいというのはある。
子供がよくやる初歩的なイジメと変わらない。

まえに、人間文化の持つ躁とかお祭りについて書いたが、上手く立ち回り、悪ふざけや、はしゃいでいる方が安全として選んでしまうように、状況の勢いの強さ、どちらにつけば得か?という選び方は、要領の良さでもある。

この手の会話には、〇〇がダメなら××をすればいい、というのが結構あるし、変な理由付けで納得したりすることもある。

機転を効かせ、頭の回転がいいのだろうが、逆に流されやすさを感じてしまう。

子供のイジメと変わらないと書いたが、叱る大人も変な事言う人間の屁理屈に丸め込まれまう現実がある。

酷いことを最初から言わなければいいのだし、もし身内に不自由な者が居ても、酷いことを言うのだろうか?

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ある種の具合いの悪さや不都合、体調不良は、現実的な問題から来る燃えカスのようにも思える。

村上さんはカフカで、画家の父か出す傑作品があると同時に、その燃えカスを家族が始末しなければならなかった、と描いた。

たぶん、燃えカスの行方は身内かもしれないし、知らない誰かに行くかもしれない。

できれば燃えカスは出さないようにすればいいのだろうが、燃えカスを出しやすい生き方をとる者もいる。

著名人には、名古屋の権力者が酷い発言をするような酷い国になったという。

しかし、いまや酷い発言は上から下まであるし、態度や振る舞いの悪さは(COVIDあとで改善されるかどうか分からないが)生活していれば見るだけで傷つく機会はあるのだ。

日常の奇特な振る舞いは不安や恐怖の発散から来ている?

対人恐怖症は減ったと言われていたが、不安や恐怖は攻撃性や発散という別の形で現れているのではないか?

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