戦直後ルポルタージュ感想文❷
さきに書いた「浮浪児1945」についての感想文の続きを書いてみたい。
ネガティブな感想で執拗(しつこ)いようだが、この作品がショッキングであったからだ。
弱者同士の騙し合いは、当時の人間でも上手く説明したり、描写出来なかったのではないか?と思う。
過酷な状況を生き延びるの方が僅かで、自殺した子もかなりいたというが、過酷な中で生き延びても、そのあと世間というのが黒歴史を受け入れたがらないというのは、二次、三次災害に近い。
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現代、高校生の自殺が多いという。
一方で1発当てる夢見たり、虐待親から逃げて都市に来る若い子もいる。
「浮浪児1945」の内容と変わらない部分だ。
都市に来ても報われない場合、売春(パパ活や地下アイドル)に走ったり、ブロン錠や麻黄剤をギリギリまで試して、おかしくなってみたりと、表面上の治安の悪さはSNSという地下に潜り分かりにくくなったが、やってることは昔と変わらないのではないか。
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感覚的にしか言えないが、戦後世代が「〇〇のような事はなるべくやめましょう」と言うのがわかる気がする。
〇〇というのが、実は物事の「間」を保ったり、ルールでは正しいが不快な感じを受けたり他人に与えたりするようなことだ。
そういう不文律のようなもの…例えて言うなら「悪いつる草」が、見てないところでドンドン伸びるように、そういう物事は際限なく膨れるから止めよう…という抑止力が習慣としてあったのではないか。
もっと粗雑にいうなら、正しいことだから他人を極限まで不快にさせてしまうようなものだ。
職場や学校のハラスメントはあるのが当たり前になり、最近では大惨事にならない限り、問題にもならなくなった。
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正しいことが難しいのは、それが正しいことであっても、その正しさを続けなければならないことにあり、ところ変われば、そんなものは役に立たないどころか、物事を硬直させ変化を失わせる。
誰が石膏の服をいつまでも着たがるだろうか?みたいなものである。
ルールや正しさというのが良くないのは、物事や人を縛り付け、いくらでも乱用できるからだ。
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どうも、悲劇の渦中にいるというのは、本人や経験者同士だけのものらしい。
また、余裕のなさは人間を保身に走らせる。
悲劇を不幸ではなく、穢らわしいものとして遠ざけるのは「浮浪児1945」に多く描かれているが、その延長に現代があるように感じる。
しかし、傷の舐め合いではなく、分かるもの同士が血の通った事…交流ができる、というのが微かな救いが当時にはあるように思えた。
この部分が今に見いだせない点かもしれない。
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