言説を捨てるということ
泉谷さんなどは、精神分析やユング、フロイドというのを捨ててきたという。
言説というのは、その時の、その状態のその人を守ることがある。
もちろん、それが取れたり、外されたり、否定されたりするのは嫌うだろうだけど、害がない分にはあってもいい、とは思う。
問題は、これから生きていこうとするときに、いままで頼っていた言説がネックになる場合がある。
そんなときは、新しい言説を見つけたり、自分でなにか考えなければならない。
泉谷さんは人間は意味を求める存在である、と仰るが意味の無い…モノトーンな生活をしていれば、うつ病のひとつやふたつ、付いてくるだろう。
または、言説なり持論なり、信念でもいい。
その深さ浅さは、その人を支える程度になるかもしれない。
あまりにも浅ければ、また新たに言説や信念を求め彷徨うことになるだろう。
いまはよく分からないご時世でもある。
売り切りみたいな言葉がネットやニュースに蔓延るなか、昔の人間の言葉も、今の人間の言葉も、状況しだいでは使えなくなるというのは、少なくない。
世の中の変化が速いからだ。
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言説や信念…支えになるものが深さを求めた場合、それが如何に世の中と噛み合っていないか?も出てくる。
しかし、それは最初だから仕方ないのかもしれない。
深さを求めながら、修正や変更を重ねて、より安定したものになるよう職人みたいに、やっていくしかないようだ。
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