真実はいつも隠れていく
さきに書いた昏い文章にしてもそうだが、哀しさや切なさは、どこか決別し克服するしかない感じがある。
太平洋戦争を悲観的に語る歴史学者のように、彼らの言いたい核には、文化や人間はネガティブなものを忘れるようにして、光のある方に向かうのだ、というのがある。
もちろん、光はあっても、まやかしや、嘘、一瞬で消えるものかもしれない。
それでも、誰よりも一刻も早く光を得て、今より良くなりたい、という性向は見ていて哀れでもあり、唖然ともするし、恐怖も感じる。
これほどまでに、この世の陰影を吟味したり、沈思したりする方が少ないのか?と、いう怖さに似た印象だ。
これから、良くなるなら何でもいい。
たしかにそうだ。
人間はネガティブなまま生きてはいられない。
明日も仕事がある。
だけど、そのような考え方に酔わされたり、惑わされたり、流されていき、物事の真実から離れてゆく。
いや、生きることに真実は要らないのかもしれない。
現世が真実であり現実である。
よく、深淵を覗くとか、覗きすぎるな、という。
しかし、なかには深淵と共に生きる少数者もいるだろうし、なかには深淵から生きるエネルギーをもらう場合もあるかもしれない。
深淵というのは、全否定するものではなく、単なる存在である。
西哲(西洋哲学)には、悪は独立した存在だから、この世から消しようがない、という考えがある。
人間が、生活で使うのだけの物事を、身の回りに置き、それでも上手くいかないとか、悪いことばかりだ、というのはソコにある独立した悪を見逃して…あるいは、忘れたり、無いものにしているからである。
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