なだいなだから狂気を考える

私が狂気に拘るのは狂気があるからだろう。

いや、人間は自分の狂気を分かっていても、何も周りがしないなら、他人の狂気に便乗したり、図に乗ったりするかもしれない。

まともと異常は程度であると、なだいなだは言った。
まともと言いながら、おかしなことをしているのもいるが、それは別の病だ。
(※)前に書いたサイコパスなど。

なぜ、狂気の方に向かうのか?
狂気に対して守らない壁がないのか。
狂気を食い止める超自我が未熟なのか。
まともと狂気の境が緩い文化なのか。

考え方は色々だ。
しかし、狂気は使われることもある。
勝手がいいため、意図的に有利に持っていく場合など、一線を越えた振る舞いが目立つとき、それはカーニバルを超えて非日常になる。

現実的な見方をすれば、狂気…それっぽい事件が当たり前に流れるように、最近なった。
一昔前なら、酒鬼薔薇で大騒ぎしていたレベルが、何ともなく報道される。

当たり前が習慣となった結果だろう。
よく、理想論者は人間に綺麗なものを描く、
しかし、人間は透明なようでいながら、白と黒で産まれてくる。

また、ネグレクトはいけないというが、実は、綺麗な世界(生活)に暴力や狂気の芽生えが育っていることもあるのだ。

どうも、こういう部分に健気すぎるのを感じてしまう。

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