原発に怒っていいというのは


少し前に村上さんは、この国の人は原発に怒っていい、ということを言っていた。

最近、高村薫さんの映像を観たけれど、やはり、そこにも怒れ、なぜ怒らない?という、不思議がコメントにあった。

何に対しての怒りなのか?

素直に見れば、これだけ、多くの人や生活が不自由し、風評被害などを産み、その責任に対して怒れ!というのが、筋だろう。

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思うのだけど、責任の所在を明らかにしないというのは、ある種の、いち文化ではあるまいか?

いや、なぜ声をあげないとか、怒らない?というのは、似たような体質が自分らもしている、ということかもしれない。

お人好しなのか?
あるいは共犯意識なのか?

組織というのは、多かれ少なかれ、ルールにギリな部分がある。

それに、会社や学校、団体でもそうだが、これは誤解を招きそうなことだ、というのはなくはない。

いやらしい部分には世の中、ツケ、貸し借りを作るとか、そんなのもあるから、仲間同士ではなく、大きく視野に入れると、組織同士で何かあったときの〇〇というのもある。

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作家というのは、リアルな事柄を表現する。

ある意味、純粋で剥き出しのテーゼ、問題点も表してくる。

あまりにも、露骨すぎる表現は煙たがられるゆえ、作家は上手く比喩を使うのだ。

しかし、さきの怒りについてもそうだが、組織という関係性や利害関係にまで持っていけば「ウチだって〇〇」といい、問題を提起する声が小さくなる、こともある。

雑にいえば、角を矯められた牛の状態である。

組織に居れば組織の声色を出す。
個人の生々しい声ではなく、組織という複雑な関係性に絡まれた、層の違う別の声を出す。

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高村薫さんが間違っているわけではない。

寧ろ、まともで真っ当な意見である。

それをしない、というのは個人というのが、組織…システムに埋め込まれてしまった結果かもしれない。

そんな、生きるための生産手段としての組織に入ってしまえば、本質からずれた別の層にある、声、解答、意見を言わざるを得なくなる。

水銀、薬害エイズ、オウム、食品偽装などの流れ、風土的な病理が問題を作っていると感じずにはいられない。

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