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ゲームの話から人間って生物だの話につながっていく

今年頭にiPhoneの容量不足による動作のラグが気になりすぎて、当時店頭在庫がどこにもなくて自分でAppleで買った128GBのiPhone SE第2世代から256GBのSE第3世代に機種変をしたので容量が倍になってまたいっぱいゲームできる!のが嬉しくてまた軽率にいろんなゲームDLしては消し…を繰り返している。(全然話したいことに辿り着いてないけど読み返したらアホほど接続詞つなぎまくりの長文だったからここで切った。口頭も文章も、いっつもメインの話のためにコレも話しておかなきゃアレも伝えなきゃってなって脱線したり前談が突拍子もないとこから始まっちゃう)

○GBの容量のゲームも余裕でDLできるぜ!て思って、友達がハマってる崩壊スターレイル、よかったらやって…て言われたのでDLしてやってる。
結構ちゃんとやれてる。

ちゃんとしたゲーム下手くそだから長続きしないかもよ〜?って言ったら、戦闘はヘブバンできてるならできるよて言われてハードルはめちゃめちゃ下がった。
ヘブバン、ほぼ育成重視だしほぼオートで回してるけど、スキルの順番考えたりとかはすることあるからそれくらいならできるかも!て思ったの大きい。スコアアタックでどんだけ効率よくバフ溜められるか〜みたいなの考えるヘブバンの戦闘、結構好きだ。


まあ戦闘の話をしたいんでなくって。
スタレくん、原神と同じタイプの複数プラットフォームのゲームだっていうの始めてから気づいたんだけど、移動が仮想スティックなんだ〜!ていうのが結構印象的で、云年前にやってたナイトメアランドっていうゲームもスマホに十字キー出るんだ!てなんか地味に感動したな〜って芋づるで思い出したりした。

ようやくスタレくんの移動とカメラに慣れてきたけど、さっきふと、これPCでやるとどうなるんだ?てめちゃナチュラルに思っちゃって、いやコントローラあるじゃん、て気づいたんだけど、そういえばスマホでの移動って左側に移動スティックがあって、完全に右利き用だよなあ……戦闘も決定ボタン右だしなあ……ゲームにもそういう左右のユニバーサルデザインの課題的なのがあるもんだ、って今日初めて気づいたかも、が本題なのであった。

パスルゲームでは色覚異常用モードで色に加えてマークが出たりするのはよく見かけるけど、そういえば利き手の左右の方が割合的に多そうだし、やりづらいと感じる人多いだろうな〜ゲーム会社ってそういうとこどんな感じでUIデザインとかのルール作ってんのやろ、てもやもや考えるなどしていた。

SNSだとかメディアだとか、なんやかやで配慮配慮言われる昨今どういうものをどこまで想定するかって結構難しいよな〜って、たまになんかに取り憑かれたみたいに考え始めたりする。

新卒で入った会社で、ユニバーサルデザインの勉強してこい、って新卒の社員みんな研修に行かされたことがあったので、どういう例があってダメな例はどんなでとか、なんとなく頭に残っているし、フォントなら結構思考停止でUDフォント選んじゃったりしている。
でも実際UDフォント読みやすいから、これこそユニバーサルデザインだなあとふとした時に実感するんだ。

ユニバーサルデザインって、高齢者のために、とか、障害がある人のために、とかではなくて、できるだけ多くの人が快適に使えるようにするためのデザイン、という概念なので、特定の人に向けたバリアフリーの概念とは異なるところが、前提条件の刷新というか、古くからの固定概念が変わったなというか、なんかそういう風に感じたなあというのが率直な感想だ。

なにもかもが“健常者”ベースで考えられている世の中、“健常者”ではない一部の人たちよりも、“健常者”であろうとする人間がいっぱい居てちょっとこわいなって思ってしまう。
かくいう私もその一人になる瞬間がたまにあるので、なんとも言えないんだけど。

最近は、多様性を認めましょうっていうフレーズが当たり前に浸透していて、自己のアイデンティティのために属性が細分化されてたり、プロフィールに表示する性別を曖昧にできたりもする世の中になってきた。
私は全然シスジェンダーなので、性別を聞かれたら素直に「女」にチェックを入れるけども、「答えたくない」「秘密」っていう選択肢が当たり前に出るようになったの、結構すごいというか、まだちょっと違和感、不思議?に思ったりする。

これは容認でも懺悔でもないんだけど、小学生の頃、クラスから爪弾きにされていた女の子のことを思い出すと、ああ、いじめってなくならないんだろなぁ、と思ってしまう。
私は、彼女がそうやって仲間はずれにされることに憤っている様子を見て、そんなことを言うからまたあの子に笑われるのに、とか、そんな感じのことを胸の内に隠しているだけの傍観者だった。
いや、彼女がそんな扱いを受けていると知っていて、可哀想な彼女の友達になろうとするために、交換日記しよ〜って持ちかけたりする偽善者だった。
けれど、ふとした時に、あ苦手かも、と思う部分があって、それがいじめの理由になっていたことも知っていたので、いじめってなくならないんだろうなと、今思い出してもそう思ってしまう。

「生理的に無理」とはよく言うけども、私自身、結構そういう部分に自制が効かないタイプなので、本当に苦手なタイプの人と接する時どうやっても繕えないし攻撃性が出てしまう。
なんかそういう、許容できない部分っていうのは人の相性として少なからずあって、上手くやっていける人ももちろんいるんだろうけど、私みたいに我慢が効かないタイプとか、もっと攻撃的なことをする人とかはいなくなることってないんだろうなと思う。

攻撃を受けている1個体を取り除いても、またその集団の別の1個体が攻撃の対象になる、というアリだったか魚だったかのそういう自然界の摂理みたいなのを思い出して、人間もそういう部分は動物的なのかなぁと無理やりこじつけて免罪を求めたりしてしまうのだ。

人間はもうこういう系統樹から外れちゃってるよね、っていう話を、ついこの間友達と科博で大哺乳類展の展示を見ながらしていたんだけど、そういう部分においては、まだ人間もきちんと地球上の生物の、進化の枝の先にある一種なんだろうなあ。という、漠然とした話題にすり替えて、社会的な問題をうやむやにしてしまうのであった。

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