見出し画像

ラン&ついでの自由学習~東京下町運河網~

走った日:2022年9月4日
走った距離:20K

画像1

神田から新大橋で隅田川を渡り、小名木川➡仙台堀川をたどって清洲橋で再度隅田川をわたって神田のランステへ

画像2

9月に入ってもまだまだ暑い。走るのには木陰が必要です。たまたま前日に仙台堀川沿いをあるいてみたら、まあまあ木陰が合ったし、とりわけ、この川に沿った仙台堀川公園は、ずいぶん快適に走れそうだったので、この日のランコースにしてみたのでした。 ただの往復ではつまらないので、朝の早いうちに小名木川(こちらは日差しをよけられるものが皆無)をいき、あとは仙台堀川公園沿いに隅田川までもどってこようと。

このへんはね、ほとんどが人の手によって開削された川です。 江戸時代の水運、つまり、いろんな物資を東からお江戸城下に運ぶためのものですね。

だからね、どれもまっすぐで、そして川の交差点なんかもあります。

ということで、走った川を中心にその碁盤の目のような運河や人口の河川をおさらいしてみたくなったわけですね。

地図にクレヨンで川を塗っていきます。


画像9

上の地図の左手、北から南にわずかに蛇行しながら流れてるのはもちろん隅田川です。

右手、やはり北から南にいく大きな大きな流れ、これが荒川と中川。 間を高速道路が走っています。 この川がこんなふうにきれいに並んでそろってまっすぐなのはこれが放水路、つまり人間の手によるものだからです。 そしてこの荒川(放水路)からやや西よりの北にむかって蛇みたいに延びているのが旧中川。 放水路ができる前からそもそもあった中川です。 群青色のクレヨンで塗ってみました。 

なので、江戸時代にもともとあったのは、隅田川と旧中川。 その間を縦にも横にも川が流れていて、このほとんどが徳川の治水事業によるものです。

では、見ていきましょう。まずは走った川から。

1.小名木川

青色クレヨンです。 東西に流れて隅田川と旧中川をつなぎます。 5キロくらい。家康が江戸入府(1590年)してすぐに開削を命じた川です。 行徳の塩をお江戸に運ぶのが開削の主な目的のひとつ。 行徳の塩は、旧江戸川(行徳を流れる)から、新川を経て小名木川に。 なので、この3つの川が合わせて『塩の道』と呼ばれているのです。  小名木川という名前は、開削に携わった小名木四郎兵衛さんに由来しています。

画像4

小名木川と同じ色で塗っている、荒川・中川の東を流れるのが新川です。これが旧江戸川に流れ込みます。

2. 仙台堀川

水色で塗っている川です。 これはちょっと複雑、というかややこしい。
《名前の由来》
名前は仙台藩から来ています。 この川が隅田川と合流するあたり、清澄公園の西隣に、仙台藩の蔵屋敷があったことからこのような名前になったようです。ちなみに蔵屋敷とは、藩が年貢米や藩の特産物などを保管したり販売したりする倉庫兼取引所兼家屋です。 この堀をつかって、遠く仙台からこちらまで物資が運ばれ、蓄えられ、さらに上屋敷(新橋あたりらしい)に運ばれたわけですね。
《開削~延長~そして今》
仙台堀の開削が始まったのは江戸時代が始まってからです。 一足早く進んでいた小名木川、新川の開削により生じた土砂を、家康は埋め立てに使った。 これが深川漁師町という開拓地で、場所は今の江東区清澄や佐賀のあたり。 それと同時並行で進めたのが仙台堀開削。そしてその開削で出た土砂も埋め立てに使われ、開拓地が完成。仙台堀完成は寛永元年(1624年、すでに将軍は三代家光)、漁師町の完成は寛永5年(1629年)とありました。 埋め立てと同時にできた堀ということですね。
だけど、その当時の仙台堀がどこからどこまでかは、ちょっと調べ切れませんでした。 この堀(というか、今では川)はその後も延びていくのです。
明治以降に延長され、さらに、大正・昭和の頃に砂町にL字型の運河がつくられ(砂町運河)て、昔からあった仙台堀川とつながった、それが今の仙台堀川。 なので、以前は、この川は、区間により名称も違っていた。 隅田川から大横川(濃い緑)周辺あたりまでが仙台堀川、そこから横十間川(黄緑色)までが十間川、さらに小名木川までが砂町運河と呼ばれていて、それが昭和40年の河川法改正とともに、これらすべてを「仙台堀川」と呼ぶようになったと。昭和57年には、この砂町運河と呼ばれていた部分と、十間側と呼ばれていた部分は、埋め立てられて仙台堀川公園という気持ちの良い公園になっています。
《”芭蕉俳句の散歩道”》
この仙台堀川にかかっているたくさんの橋のなかに、海辺橋というのがあるんですが、そのあたりに、松尾芭蕉の門人、杉山杉風の庵「採荼庵」(さいとあん)がありました。 芭蕉は奥の細道に旅立つにあたりそこから出発したという説があります。 (すぐ近くの深川に芭蕉庵があったんですけどね、そこのところはもうちょっと調べないと自分の中でつじつまが合わないです)でもまぁ、そんなことから、この仙台堀川沿いの遊歩道には芭蕉俳句の散歩道として整備されているところもあり、古池や~をはじめとした有名どころの句碑がたっています。

画像5
画像6
画像7

小さな川のことなのにずいぶんと説明が複雑になってしまいました。 まー、一言でいうと、お散歩やランニングにはちょうど良い気持ちいい川です。

次に、超えた川。 小名木川と仙台堀川はほぼ並行して東西に走るので、それを縦(南北)に流れる川が交叉します。 それが横十間川(黄緑色)と大横川(濃い緑色)です。 また仙台堀川から、平久川も南に流れていきます。 ので、この3つの川は今回のランで出会った川に入れておきます。 が、平久川はちょっと後回しにさせてもらって・・・

いちおうもう一度地図を載せますね。

画像9

3.横十間川(ついでに超えてないけど北十間川)

横十間川は、小名木川、仙台堀川と直角に交叉しています。 江東区の亀戸と墨田区業平の境目あたりで北十間川(スカイツリーをうまーく撮れることで知られていますよね)から分かれて南に流れ、堅川、小名木川、仙台堀川と交叉した後に西に折れて木場公園のあたりで大横川とぶつかります。
もちろん運河です。
名前の由来は、お城からみて横に流れて(今の地図をみると縦ですけどね(笑))、川幅が十間ほどだからです。
開削開始は1659年。 幕府の命により、ここの開削の指揮を執った徳山重政・山崎重政両名は後に本所奉行に任命されています。

北十間川は、上で記したように、横十間川が分かれる元の流れです。 名前の由来は、本所のを流れる、川幅十間ということから。 地図では上の余白にはみ出してしまっているんですが、グレーでだいたいの流路をいれておきました。 この川がこんな感じで今、隅田川(西)と荒川(東)をつないでいます。 この荒川は放水路で当時はなかったので、開削された当時は、隅田川と中川(当時の)をつないでいたことになります。 そしてこの川から横十間川や大横川が南下していくのです。

4. 大横川

小名木川をいくにせよ、仙台堀川をいくにせよ、隅田川側からいくと最初に交差するのが大横川。 地図で見ると、横十間川と同様、北十間川から分かれ、横十間川と平行に南北に流れていきます。 だいぶ南に降りたころに、西に曲がってきた横十間川を受け入れ、一緒に少し南に降りてから西に流路を変えて隅田川に流れます。 (ん? 隅田川に流れ込むのか、隅田川から流れ出るのか、確かめてない💦)
名前の由来は、横十間川と同じ、お城からみて横に流れているから。 最初はただの横川だったらしいけど、時が経った後、付近を流れる大島川とつなげられ、双方の名前をとって大横川という名前になり今に至っているということらしい。 北十間川と堅川をつなぐ部分は暗渠化され、今は、大横川親水公園として憩いの場所になっています。
そして開削は北十間川、横十間川と同じ時期です。

5.ついでに堅川(超えてないけど)

堅川についてもついでに触れておきます。 地図では確認できない、なぜかというと高速の下なので。 茶色く波線をつけました。
暗渠部分はこれもまた親水公園になっています。 ついでにいうと、雨の日だけどやっぱり走りたいっていう人にはお勧めなんだそうです。 (走ったことないけど)
さて、名前の謂れ。 これはお城に向かって縦に延びているから『たて』川、で『堅川』に。 小名木川に並行して、もう少し北で、隅田川と中川をつないでいるわけです。
これも運河。 1659年の起工、つまり、またまた、北十間川、横十間川、大横川と同じタイミング
そしてこの川たち、タイミングだけじゃなくて、名前の付け方も統一感がありますよね。 同時期に開削されたこれらの川によって、すでに開削されている小名木川、仙台掘川と合わさって、隅田川の東に運河が碁盤の目のように揃いました。

ヨコ線は北から
北十間川
堅川
小名木川
仙台堀川
(短いけれど)西に流路を変えた横十間川
(短いけれど)西に流路を変えた大横川

タテ線は西から
隅田川
大横川
横十間川

完璧! そう、これらの川(北/横十間川、大横川、堅川)どれも共通したひとつの大きな都市プロジェクトの一環なわけね。 

6. きっかけは大火事

1657年、お江戸を焼き尽くした明暦の大火! 冬のお江戸、2日にわたってお江戸の六割を焼き尽くした。 当時のお江戸はすでに人口過密状態、建物も密、もちろん木造、冬で空気も乾燥・・・どんどん火が広がって被害者は諸説あるけれど10万だとか。 これは江戸の人口の2割に相当するらしい。

これをきっかけに幕府は大規模な都市改造に乗り出します。 まあ、六割がなくなっちゃったんだから、改造というよりは、新たな都市づくりですね。
そのひとつが、墨東地域の開発。 この大火事で、庶民、武家、社寺、などなど身分立場を問わず多くの人や建物が焼け出されました。 幕府は、両国橋を架橋して、城下にあった武家屋敷などを隅田川の東に移すことにした。 今でいう、本所、深川あたり。 当時の墨東地域は未開の低湿地。 海だか陸だかはっきりしないびちゃびちゃのところ。 もちろん人なんか住んでない。(たぶん)
その土地を灌漑して人が住める場所に変えないといけない。 作物もつくれるようにしないといけない
それはそれは壮大な新興都市づくり。
大火事のときに、建物が密集して人々が逃げられなかったとか、隅田川に(お城を守るという理由から)橋がほとんどかかってなかったので、逃げ行く人々はそこで足止めになってしまったとか、そういう反省のもとに、幕府は運河も道もタテヨコに整備した、防災を強く意識した都市づくりを。かくしてつくられた運河は灌漑だけでなく、物流の要ともなってお江戸下町の繁栄に貢献をしていくのでした~~

ちなみに、明暦の大火が起こった時の将軍は四代家綱。この方は御年10歳で将軍になり、明暦の大火は6年後で16歳。幕府といえど、老中ですね、指揮官は。

7.最後に触れる平久川

平久川は、仙台堀川から分かれて南に流れていく川ですが、この明暦の大火による徳川の都市計画のなかにはあまり登場しません。そのころは、あったとしてもとるにたらない川だったからだと思います。だって、そのころのお江戸は大横川くらいまで。 江戸切絵図に平久川がありますが、これは仙台堀川から大横川まで。大横川がほぼ海岸線に沿っていたのではないかと思われます。

画像8

https://tokyo-trip.org/spot/visiting/tk0342/

↑画像はここからお借りしました。

かくして大惨事を契機に都市が整備され、これが今のTOKYOの基礎になっているのは間違いない。それから明治大正昭和と時が流れ、地盤沈下や工場排水などの苦労をしながらも、東京の陸地は広がっていくのでした。東京はどんどん大きくなり、埋め立て地はまさにもっと細かい網の目のような運河網なわけですが、それはまた次の機会に。

読んでくださった方、ありがとうございました。

また、走って、そしたらまた書きます。たぶん(笑)


今回調べるのは、以下を参考にしました。

まずはなんといってもこのサイト。

ほかにもいろいろ。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?