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ラン&ついでの自由学習~青梅街道・青梅の街・青梅の酒~


JR青梅線 河辺駅と御嶽駅間をほぼ線路に沿って往復しました 帰りは多摩川の遊歩道も

走った日  2022年10月23日
走った距離 24K
走った後で寄ったところ 梅の湯 澤乃井園

青梅を走りました。
JR青梅線河辺駅をスタート、ほぼ、線路に沿って、青梅街道を行く感じ。
御嶽駅までいったらUターン。
青梅は古い町並みが残って情緒あり。
ふと、誰かがいった。

『青梅街道って、青梅までじゃないのね。 どこまで行くんだろね? 』

そうそう、私たち、青梅街道っていったら、思いつくのは、新宿の大ガードとか、中野坂上の交差点とか・・・
ね。
どこまで続いてるのかなんて考えたこともなくて、で、走ってみたらすぐに青梅駅を超えちゃって。 (笑)
 
走った後のお楽しみ、澤乃井園は、地元青梅市が誇る蔵元小澤酒造さんの銘酒『澤乃井』を、多摩川の清流のほとりでいただける、それはそれは素敵なところ。
JR青梅線沢井駅からすぐ。
飲んでへべれげになって駅舎に入ろうとするときに、また誰かが言った。
『澤乃井はこの駅名沢井からきてんのかなぁ? だよね、きっと』

で、調べてみました。

青梅街道の成り立ち、そして宿場町青梅
それから
蔵元澤乃井

青梅街道と青梅宿


まず、むちゃくちゃざっくり、始点と終点を。
始点は新宿。 終点は甲府(酒折)。 新宿と甲府を132キロでつなぎます。
えっ?
新宿から甲府だったら、それ、甲州街道じゃん? それで事足りるんじゃん?
 
はい、そうなんですよね。 もっと正確に言うと、内藤新宿の追分(いまの新宿三丁目の交差点あたり)で甲州街道から分岐し、甲府の酒折でふたたび甲州街道と合流、というか吸収される。
なので、青梅街道は別名甲州裏街道などとも呼ばれています。 

オモテ? の甲州街道と比べると、甲府までの距離は2里ほど短い。 
だけど、大菩薩峠などを超えなくてはならず、道は険しい。 
体力的にはきつい。 けど短い。 
宿場はどうかというと、大名行列などがないから本陣なんていう立派な宿屋はなく、代わりに安宿がならぶ。 
そしてそして・・・・・
五街道に指定されていない脇街道なので、関所が限られている
たとえば、甲州街道におかれた小仏関所(いま、渋滞に関するニュースでよく聞く小仏トンネル・・・のあそこですね)は、相模国と武蔵国の国境に位置した、甲州⇔江戸のもっとも堅固な関所だったらしい。
青梅街道の道筋をとればそこを超えなくて済む
これが、本命甲州街道との決定的なちがいなんではないでしょうか?、
 
においますよね。 
体力的にきつくても訳アリの旅人はこちらを選ぶわけです。
そして、お金がない庶民もこっちを選ぶ。

まあ、当時は青梅街道という名前がつけられていたわけではない(なんてったって五街道に入ってないんですから)。
のでなおのこと、甲州街道の裏道とか、脇道とか、そんな感じだったのでしょうね。
 
では、このあと、どうやってこの道が出来たのか? そして、どのように機能していったのか、その変遷をみてみましょー。

赤いのが青梅街道、青いのが甲州街道。今は大菩薩峠は回避していますね

青梅街道の成り立ち


開通は1606年。 家康が江戸幕府を開いて3年後、関ケ原から6年後ですね。
小田原制圧で天下をとった秀吉から関東に追いやられた(関東移封)家康は、関ケ原以前から江戸の街づくりに着手していた。
そこで江戸城を拠点とするも、当時の江戸城は、そもそも室町時代に太田道灌が築城したお城(1452年)。 後の江戸城/今の皇居とは比べ物にならない、小さな砦みたいなものだったから、家康はまず、江戸城の整備拡張を急いだ。 とにかく、でっかく強く、徳川の力を世に知らしめる。

そこで目を付けたのが、現在の青梅市北部にあたる成木村・小曾木村の石灰。 石灰は漆喰の原料になります。 耐火性、耐水性にすぐれる漆喰は江戸城の外壁に使われた。
膨大な量が必要です。 この石灰を江戸城に運ぶために、突貫工事のように急いで作られたのが青梅街道だったのです。 かくしてこの道は、当時は石灰道路などとも呼ばれる、建築資材輸送の産業道路としてスタート、発展していったのでした。


ステージ2:甲州裏街道の顔、甲州裏街道の宿場町青梅


さて、時は流れ、青梅街道も次のステージに入ります。
まず、成木の石灰産業が下火になってきます。 理由のひとつは、群馬や栃木などでも石灰が採掘されるようになったこと。 ここの石灰は利根川でお江戸城下に運ばれる。 水路は陸路よりも輸送コストが安く、この道は、輸送手段としての競争力が失われていった。
さらに、石灰に替わるもっと安い原料(牡蠣殻を砕いた粉)が江戸深川で調達できるようになり、ますます成木の石灰への依存度が低くなってきて。。。。
 
こうして成木の石灰産業が陰りを見せ始めたちょうどそのころ、青梅のさらに西、奥多摩に向かう難路に、『数馬の切通し』というのが、大変な工事を経て開通します。 切通しというのは、山や崖などの切り立ったところを削ってできる、人や馬が通れるくらいの道です。 これによって、標高1900メートルの大菩薩峠という難所を通らなければならないとはいうものの、青梅街道は甲州に向かってさらに西へ延びていくことになりました。

そもそも甲州街道が甲州に通じてはいるのだけれど、ここには、さっきも書いた通り、堅固な小仏関所がある。 対してこの青梅街道、ハードな山越えはあるけれど、関所がない・・・・・訳アリの人が利用する。

こうしてこの道は、甲州裏街道として利用されるようになり、青梅はその宿場町として栄えた
栄えたといっても、甲州街道ではないので、大名行列などが通ることもない、本陣なんかない、小さな安宿中心の宿場町です。
安宿がいっぱいできたら、訳アリじゃなくても、お金がない人はここ、通りますね。

ステージ3:参詣の道と入り口の宿場町


奥多摩には御嶽神社というのがあり、信仰を集めていました。 山岳信仰ですね。 パワースポット。

当時のひとたちにとって、お参りというのは信仰でもありレジャーでもある、大イベント。 
その最高峰はお伊勢参りなわけだけれど、お江戸まわりのひとたちにとっては、お伊勢さままではちょっと、というか、すごく大変。

で、ここ、御嶽神社にも、『御師』という、お参りから観光の総合ガイドみたいな人がそろっていて、お参りとレジャーを兼ねた旅人のケアをいってに引き受ける。 お参りと観光のメッカのひとつだったんでしょう。
お参りトラベラーさん向けの準備が整っているので、旅人はそこまで行きさえすれば、あとはよろしく面倒見てくれる。

で、そこに向かう。
歩く。 歩く。 
道中頑張って、『ここまでくればあともう少しで御嶽だ』ってところに、青梅宿がある。
これは便利。
青梅でまず一泊して、それで朝から御嶽神社へ行けばよい。
青梅街道は、そんな、参詣ツアーの経由スポットとして、利用されます。(ゴール手前の最後のエイドですねw)

そうしたら、ここにもできますね、お茶屋さんとか、揚屋さんとか、まー、そういう『大人のお遊び』の場所(お参りの前だってのに? いや、お参りの後だとできないから? 笑笑笑) こうして青梅宿、庶民がお泊りする場所が整いました。
 

ステージ4:織物のシルクロード


さて、今度は織物の話です。
『青梅縞』という、青梅市の指定有形民俗文化財があります
これは、絹と木綿をそれぞれタテ糸ヨコ糸とした、個性的かつ伝統的な織物です。
時はさらに流れて江戸時代後半に入ります。 1700年代。
このころ、庶民が絹を身にまとうのは禁止されていました。 奢侈禁止令ってやつです。 身分が低い人が、身の程を超えた贅沢なものを身に着けるのはNGだったわけですね。

だけれど、庶民だって、やっぱり粋な着こなしを楽しみたい。 で、そんな法の抜け道をついたのが青梅縞。 これは完全な絹織物ではありません。 ヨコ糸は木綿ですから。 で、当然ながらお値段もリーズナブル。 法を破ってないし、おしゃれだし、お値段も手が届く・・・当然人気の織物になりました。
青梅には、それを売る市が並び、栄えました
そこに、越後やさんというお江戸の豪商が目を付けます。 今の三越ですね。 出先機関を青梅に設置。 買い付けをどんどん進める、だけじゃなくて、地元の小さな織物屋さんをサポートしたり囲い込んだりしたのかもしれません。 そして、ご当地でできたものを、大都市お江戸で売りさばく。。。。ために、運びます。 とにかく、そういう、織物の流通の道として、青梅街道は機能したんでしょう。 シルクロード? シルク&コットンハイブリッドロードですかね(笑)

青梅街道の今


まあ、そんなこんながありました。
で、ここまで、なんてことなく、『青梅街道』なんて書いてきたけど、青梅街道という名前が正式名になったのは、ずっとずっとずっと後のことです。
 
いずれにしても、新宿大ガード、中野坂上交差点、そして、高円寺(環七)、阿佐ヶ谷、荻窪と、中央線に沿った東京の幹線道路として、存在感高く(と私は思う)輝き続けているのであります。
でも、今日からは覚えておこう。青梅街道は、青梅が終点ではないことを。

青梅の街についての中締め

そんなわけで、今の青梅、今でも在りし日を彷彿するような、レトロ感満載の素敵な街並みを味わうことができます。今回は、走るために通ったのでのんびり味わえなかったけれど、そんな街並みや建物をゆっくり味わいながらのお散歩も良いなぁと思いました。
ちなみに、スマホに納めた数少ない写真のひとつ、旧稲葉家は、かっこいいから撮ってもらったんだけれど、江戸時代の青梅宿の町年寄にして、豪商の稲葉家のおうちがそのまま残されている、観光名所でした。あの青梅縞の仲買なんかでも成功をおさめています。そしてそんな織物の商いに関連するかっこいい建物が他にも。今回は江戸時代を中心に調べたけれど、青梅の織物はその後も健在。時代は明治、大正、昭和と流れ、今、青梅の街は『昭和レトロな街並みを楽しめます』と銘打っているから、その後もいろいろと文化や芸術が活き続いていったんでしょう。けど、きりがないのでこの辺で。

稲葉家です


この道を走りながら撮った(正確には、仲間が撮ってくれた)写真をアップしておきます。素敵でしょう?

蔵とか草ぶきの屋根とか、大きな岩とか空とか山とか


見下ろすのも最高。多摩川の清流

ついでに名前について


で、ついでに触れておきたい、『青梅』という町の名前の由来
これは、さらにさかのぼって、平将門の話に。
平将門というのは、平安時代の坂東の豪族。平家物語の、有名な最初の祇園精舎のクダリ、『奢れる人も久しからず 猛き者もつひには滅びぬ』のところ、『承平の将門』として、平清盛の前座的に登場していますね。
 
その平将門が、この地に来た時に、馬の鞭につかっていた梅の枝を地面に挿して、言った。
 
『わが希み叶うなら根付くべし、その暁には必ず一寺建立奉るべし』
 
果たしてこの枝は。見事に根を張り、葉を繁らせたことから、京都は真言宗の偉い(んだろう)お坊様がこの地にお寺をたてた。
 
そしてこの梅の木がつける実が、不思議なことにいつまでも熟すことがなく、青いままであることから、『将門誓いの青梅』と言われるようになり、この土地一体も『青梅』と呼ばれるように。
 
梅の古木は、大正11年に天然記念物に指定されています。金剛寺の説明の立て札には、将門伝説に触れつつも、、『植物学的には突然変異とされている』とも、ちゃんと(?(笑))記してあります。かなりの老木なので拝むには急いだほうがよいかもしれないですね。


金剛寺のサイトからお借りしました

青梅が誇る蔵元 小澤酒造と銘酒澤乃井

今回のランニングの目的地は、青梅街道沿い、そして多摩川の清い流れのほとりに広がる澤乃井ガーデン。
往路ランでは素通りしながら、『さあ、走り終わったらここに戻ってくるんだぞ』と自らを励まし、走り終わって、お風呂で汗を流してから、電車で沢井駅まで移動、清流のほとりでいただくお酒は、がんばって走った体と心にきゅ~んとしみわたります。
澤乃井と沢井。もちろん、澤乃井という名前はこの土地から来ていました。


下の写真だけ、ウェブサイトから拝借しました 右上は至福の写真です

日本名門酒会のウェブサイトを参照してみました。
創業は元禄15(1702)年。蔵元当主の祖先は、もともと甲斐・武田氏に繋がり、甲州から武州澤井村に移り住んだ一族だとか。

武田信玄没後、『軍資金をもって甲斐を去り、身を隠しながら、武田家再興に備えた』遺臣たちがいました。こうした、『一時的に』(のつもり)甲斐を去りながら、結局戻れなかった遺臣たちのなかに、澤井村を永住地と決めた人がいた、その末裔が蔵元当主。軍資金をもとに植林を始め、元禄年間には酒造りを始めた。酒銘は、地名澤井にちなんで。

青梅街道が甲州まで続いていると知った今となっては、この澤乃井さんがこの場所にあることが、なんとも感慨深いというか、運命を感じるというか。。。。
 
以上、青梅街道、青梅宿と青梅の誇る酒蔵澤乃井のお話でした。
 
一緒に走って一緒に飲んでくださった方ありがとうございます。
そして、読んでくださった方、ありがとうございます。

参考にしたのは以下のサイトです

ここまでは、以下を参考にしました。

http://kimama.life.coocan.jp/kimama2/oumekaidou.htm

https://www.histrip.jp/170131tokyo-nishitamagun-6/


https://campus-viridis.blog.jp/archives/12598219.html

そのほかいろいろ。

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