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6/20 『おおあんごう』を読んだ

著者であるお笑い芸人・かが屋の加賀翔が体調を崩して一時期活動を休止し、その復帰ライブで自身の身の上話をしており、本作はそこで話されていた内容を小説化したようなものであったと言える。僕はそのライブを配信視聴していたので、つまり話の内容などは事前に知っていたのだが、それでも序盤の父親の暴虐にひたすら振り回される主人公の少年の様子は辛くて見ていられなかった。それほど父親の突飛で無礼で意味不明な言動に怯え、恥じ、困惑する少年の心情描写が堂に入り真に迫っていたのだろう。なんせ、著者たる加賀君の風貌やキャラクターは既にネタだったりなんだりで知ってしまっているから、その加賀君の幼少期も容易に想像でき、あァそれは確かにこんな父親に真っ向から歯向かったりなんてできないよなあ、としみじみと実感できてしまうのだった。作品と著者は分けて考えるべきかもしれないが、こればかりは著者の人となりを事前に知っていることが覿面に功を奏した。
しかしそれだけに母親が離婚を決める流れは、たまらぬ解放感をもたらした。スカッとするなんて一言には収まらぬ謎の清涼感。未練というか、今までどうにか堪えてでもやってきた家族のかたち、それがまだ何とかなるのではないかと諦めきれずにいた気持ちを諦めきれたという、達成感のようなものさえ感じられた。あのときのお母さん、その後はどうかわからないが少なくともあの瞬間においては、父親に対する怒りや憎しみ、哀しみさえも手放せていたのではないか。それにおめでとうと言ってやりたい気持ちと、同時に「あ、人ってこんな感じで人を諦めるんだ」というほのかな寂しさを覚えたのも確かだ。まあ、だからって別に父親に同情は湧かないんだが。
母親と主人公の互いに互いを慈しむ想いにはほっこりさせられるが、一方で互いに互いの話をつまんねえなと思っていたところは面白かった。それ一点のみでは到底許される振る舞いじゃなかったけど、家族の中で「面白さ」を担っていたのは父親だったということなんだろう。
そしてラスト。成長して後の、父親との再会。物語作品としてみた場合、あからさまにバッドエンドなのだが、しかしこれも事前にライブで大オチトークとして話されていたのを聞いていたので、哀しみよりも可笑しみが上回ってしまった。笑い話として確かに昇華できていたってことでいいのかな。
ライブの話ばかり引き合いに出してしまったが、そこになかった要素というのもあった。それが友人・伊勢で、はたして彼は小説オリジナルな存在なのだろうか。あるいはモデルがいるのか。少なくとも現相方の賀屋は幼馴染ではないはずだが。彼はどういう存在なんだろうな。幼少期は心の支えにもなり、芸人になってからも相方として共に歩み続ける、半身のような存在か。彼を見て実際の相方がどう思うかというのもちょっと気になる。

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