11/8 宗田理『自殺同盟』を読んだ

面白かった。
小学生の頃に『ぼくら』シリーズを読み始めたことが我が読書人生の最初の1マスであったと今は認識しているが、それだけに、宗田理という作家について己はある程度精通していると思っていた。べつに著作を全部コンプリートしてたり人となりを知悉しているわけでもないけども、どこか自分という存在と融合しているというか地続きであるという無意識があったように思う。
だからこの、『ぼくら』とは切り離された、いち作家としての宗田理の短編集を読んで、ある意味、他人行儀な目で見つめてみることでまた新たな知見、新たな側面といったようなものが得られたことがとても面白かった。まさか宗田理の書く濡れ場が読めるとは。
表題作でもある「自殺同盟」は、最後の子どもと大人の対比がエグい。ほんの気まぐれのような心地で始まった二人の自殺旅行。大人の倉知の方は最終的にどうやっても後戻りの効かないとこまで行ってしまいやや後悔をのぞかせ、子どもの明男はまだ全然戻ることができるが、明男の方にはちっとも戻ろうという気はない。二人の結末は描かれずに終わる。二人とも死んでしまうのか、それとも止めるのか、どちらかだけが死ぬのか、それはどちらなのか。すべての可能性がちょうど等分に残っている感じがよい。
一番気に入ったのは「たった一度の冒険」。定年間近の窓際サラリーマンが、元部下で今は自分を飛び越して上司になった男が実は自分を利用してのし上がっていたことを知り、そいつの女性問題を嗅ぎつけたことから復讐を思い描くも、いざという時に上司の妻が割り込んできて大修羅場、揉み合った末に妻が上司をホテルの窓から突き落として殺してしまう。くたびれてゆくだけの人生に残された最後の”冒険”にも失敗してしまい己を悔やむ……という話なのだが、なんだかすごく、上遠野浩平っぽさを感じた。人生のままならなさとか、それを見つめる視点のようなものが。小学生の時にハマった作家と、中学生の時にハマった(それは現在も続いているのだが)作家が、とくに意識してもいなかったのに似たような性質を現していたことにちょっと感動してしまった。
最後を飾る「補陀落水行」は、ミステリー仕立てで進みつつ、しかし結末はなんとも言いがたい。辻褄の合う説明はつけられるのだが、それが手紙で物されているあたり、どこまでが本当かわからぬまま。さらにエリート教育(?)への警鐘のようなものが込められていて、これを作者からのメッセージと読むべきなのかどうか、とか。そういう「わからなさ」を残してくれているのも、今まで宗田理のことを「わかっている」と思っていた自分を意識するきっかけにもなり、ある意味で面白いものだった。
これでまた来月は『ぼくら』シリーズの再読に戻るわけだが、これまでとちょっと違った気分で読めるのではないかと期待を膨らませた。

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