7/28 『天気の子』を観た

面白かった。
比較的穏当な結末に至ったのは、責任の話でも決断の話でもなかったからではないかと思う。と書いて、穏当……?東京水没してて……?とわが指を疑ったが、改めて考えてみても、あれは「穏当」のうちに入ると判断。衰退、滅亡の途上であったとしても、新たに水上交通網が敷かれてる程度には穏やかだろうと。ともあれ、では何の話であるかといえば、世界をとるか彼女をとるかの二者択一の話ではないにしても、選択と決意の話であったんだろうなと思った。須賀の言葉は或いは正しくて、少女ひとりの犠牲や少年ひとりの行動で世界が左右されるワケはない、ただ、それでも覚悟と意志を持って、できることをやっていくしかない、というような。世界が狂っていようが、狂っていこうが、それは変わらないのだと。
前作でもそうだったかもしれないが、今作における自然観、神様(?)観はなんというかかなり都会的で、人間の思惑にかかわらずかれらはかれらの営みを続けるだけです、という感じがした。最近の映画でいうならゴジラKOM。しかしアレらほど凶暴でもなく、神域に人間が踏み入ってくるのも自由だし、入ってくるならこちら側として扱いもするけど、出て行くならどうぞー、ってな風に。同じマンションの隣の人でも過干渉は避けましょう的な。
そしてそれは世界そのものもそうで、世界は僕らにお構いなしで動く、でも僕らは世界に構うことができる、干渉することができるので頑張ってやっていきましょう、という話であったと思う。 
明確な敵はおらず、悪意も届かぬ、けれどかたちのないそれっぽいものによって息苦しい世界を脱するための指南書。それは働くこと、逃げ出すこと、出逢うこと。
同時にそうした子供たちに対する、大事なものも辛いものも一緒に存在してしまってる大人たちが世界を生き抜くための指南もはあったと思う。それは働くこと、逃げ出さないこと、触れ合うこと。どっちにしろ働くんですね、辛いな、でもやっていきましょう、以上。てな感じで。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?