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7/18 『テトラド2 統計外暗数犯罪』を読んだ

前巻に続き、やはりなかなか読みにくさを感じる場面がままあり、時間がかかっていた。原因を考えてみたところ、視点人物の、その視点の差異があんまりないことが一因なんじゃないかと思い立った。場面ごとに視点人物が変わりはするのだが、その誰もが正義とは何か、悪とは善とは、ということに思い悩んでおり、そこで混乱というか、混同してしまうのだ。またその考えることが答えのない問いであるために、思索が延々続いてしまう。ふと気づけば、俺は今誰の何を読んでいるんだ? 作者の思考を追っているだけか? となってしまう。作中に登場する人物が、みな二年前の拘置所火災に縁ある人々なのも影響している。「共感」以前にみんな同じ方を向いて同じことしか考えてないじゃないか。異なる主義主張、思想を持った者たちを結びつけてこそ「共感」なんじゃないのか。
ここに百愛部の視点があればまた違った読み味になったかもだ。あるいは百愛部に「共感」してしまった者達の。あからさまに異質で邪悪なその視点から放たれた言葉に、読者は「共感」してしまうのかどうか。危うい試みだが惹かれる。
そして、怒りについて。テトラドの特性により感情が増幅され周囲に伝播し、怒りがウイルスのように拡がっていくというのは、リアリティ云々というのとは別に、どうなのかな、と思われてくる。自分が怒りを抱いたときの心理を思い返してみるに、なんかこれってそういう、ゲージ溜め必殺技みたいなものとはちょっと違う感じな気がするな俺は。堪忍袋の緒が切れるとは言うけれど、そうやって袋に何かが溜まっていくというよりは、服についた汚れのような感じだと思うのよ。なかなか拭えず、目にするたびに不快さが甦り、そして汚れが増えていくとあるときもういいやとなって破り捨てる……あくまで自分のイメージの話でしかないが。
また百愛部を真の悪としてみな断罪するのだが、それもどうなのだろう。感情の伝播をウイルスにたとえると、百愛部のようなテトラドは言ってみればウイルスに感染してるのにノーマスクでがなり立てて周囲にウイルス飛沫をばらまく存在であると言える。なるほど確かに社会に出しちゃいけない悪だけども、それでも実際に害を及ぼすのはウイルス、怒りそのものである筈で、そしてそれは増幅され得るとは言え誰の中にも存在するものでもある。そこを差し置いて百愛部を敵視するというのは、果たして……という気になる。これは俺が百愛部に「共感」している、ということだろうか? おそらう、作者は意図的にそう感じられるように描いていると思う。ともすれば「百愛部かわいそう、自分でもどうにもできない性質に振り回されて、最期はあんな仕打ちを受けて」と感じるように。犯罪の発端に、あえてスポットライトを当てていない。この物語の発端である拘置所火災事件の、実行犯がついぞ語られなかったのもそういうことなのだろう。あるいは今後描かれる予定なのかもしれないが。
「悪は多分、人間の普通の状態で、善は努力しなければ手に入らない。そして正義は、善にも悪にも属さない。それは状態ではなく行為を指すものだから」という言葉も、怒りをウイルスになぞらえたことと合わせると、それが今の時代ということなのかも。性悪説とも違い、「普通」とは古来、あるいは原初からそうであるってことではなくて、今の世の「普通」がそうなのだってことではないか? 今や社会はウイルスと共生していかねばならないように、悪=怒りとも、正義という行いによって善くあるように努めつつ、共生していかねばならないという。なんか、最初に思ってたエンタメとは随分距離が離れてたが、これはこれで面白く読めたのかな。難しいが、続きが出たらまた読みたい。

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