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10/11 『ウェルテルタウンでやすらかに』を読んだ

Amazonでオーディオブックのサブスクサービスが始まり、そのラインナップの一つとしてまず本作のオーディオブックが発表され、その後書籍化されたものが本書。オーディオブックでは聴いていない。西尾信者として不覚悟の謗りを免れないが、他に聴きたいと思えるものもざっくり見当たらなかった……し、そもそも日々のラジオ視聴でお耳がいっぱいいっぱいというのもある。というわけで折角の新進気鋭なサービス企画のところ申し訳ないが、従来通りお目目から読ませていただいた。ラジオを聴きつつ。
書き下ろしの単発もの(少なくとも発表時点でシリーズ化は見越してない筈)で、主人公が小説家。西尾維新の単発作品、必ずと言っていいほど小説家が登場するな……語り手自身が作家であるケースも多いし、そうでない場合でも語り手の親族とか近しいところに作家がいる。逆に、シリーズ化してる作品にはあまり小説家は出てこない。漫画家や芸術家、ルポライターなどは出てくるのに。ふと気づいた不思議なジンクスである。
お話は、町を自殺の名所にするという実に悪趣味なトピックから、なんで自殺しちゃいけないのという、中学生くらいで済ませておけよという議論……しかし、本当のところ中学生くらいまでに済ませておかないと、「その話はもう済んだ。残念ながらお時間です」ってことにしとかないと本当は一生かけたって決着することなんてない議論に、改めて趣向を凝らして検めるというものであった。と解釈した。導き出されたその結論ならぬ、けして完結しない論は、言ってしまえば当たり障りのない落としどころ、軟着陸のしどころではあるが、一方で西尾維新のデビュー作『クビキリサイクル』における一節、「たとえばきみは何のために生きているのかと訊かれたら、ぼくは念のためだと答えるだろう」というのを思い出し、いや変わってねーなーとも思った。いやいや変わってないこともない。『クビキリ』におけるその一節は悲観的な主人公の虚無的なモノローグだったが、今作においては似たようなキャラクターから似たような台詞が、しかし真逆ともいえる文脈のダイアローグにおいて発されているのだから。
斯様にお目目でも十分楽しめた小説であったが、しかしさすが西尾維新、オーディオブックのPR小説としても相応しい一節を作中に盛り込んでおり、あァこれはオーディオブックで聴いておくんでもよかったなと、当時の判断を少しお悔やみ申し上げた。

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