見出し画像

5/6 『人は2000連休を与えられるとどうなるのか?』を読んだ

とても面白かった。懐かしくも新鮮な驚きに満ち、そして自分でも意外な感情に襲われた本だった。

著者を知ったのは、本書のなかで言うと著者の芸人時代のあたりだ。芸人活動じたいはほとんどお目にかかれてなかったが、ネット上で発表していた文章やその他活動に夢中になっていた。芸人を辞めて以降、どうしていたのかこちらから知るすべはなく、しかしたまにブログや各ウェブメディアで発表される文章を読んで、それらがことごとくネットでバズってたりなどその面白さが色褪せてないことを確かめ、まあこの才能なら今後もなんとかやっていけるんだろうなと薄ら安心していた。
だが本書はその知るすべとてなかった「以降」がどのようなものであったかということがつぶさに書かれていて、ここまでのことになっていたのかと驚きを禁じ得なかった。

連休序盤の日々は、ひとえに羨ましい。もし僕が2000連休を与えられたらしそうなこと、やりたいと思うようなことをことごとくやっており、ある意味非常に参考になった。図書館にこもって溺れるほど本を読むだとか、行動記録をつけるだとか、気持ち超わかる。なんならこのnoteもそういう類のものだ。自分の願望の先行研究を読んでいるようで、感謝の念さえ湧いてきた。
とは言え、行動記録を分単位でつけるようになるとか、そこまで突き詰めることは自分には無理だ。あまりにも壮大にして矮小なる自己実験、自己観察の日々。自己愛だけではとてもできない。記憶を延々書き出していくという、カルト宗教や悪徳セミナーが洗脳手法として用いる作業を自発的に、無目的にやってるのとかマジかと思う。何が彼をそうさせるのか。ひとえに時間だろうか。

それにしてもというかやはりというか、文章がうまいなーと昔に思ったことを改めて思う。例えがうまいのかな。表現の転化というか。読書を食事に例えたり、感情の書き出しをゴミ掃除に例えたり。そうして例えたときの、運動の変化の書き方がうまいのだろう。

しかし1000連休を過ぎたあたりから、共感の度合いは薄れていった。哲学の話になってきたあたりはまだいいが、離人感というところまでいくとちょっとそこまでは手離せない。
そして終盤あたりの話になると、なんかもう読んでて腹立ってきた。共感しにくいということもさることながら、世界が偽者だの現実は妄想だのと、半ヒモの分際で随分とナメたクチをきいてくれやがるな、とイライラしきりだった。自分から人間社会との繋がりを薄れさせておいて、うつし世は夢だ、自分の肉体や意識すら私ではないとかなんとか、うっせーことを言いよる。そのくせ、定期的にスタバには行きやがるのがまた腹立たしい。セブンコーヒーにしとけ!

自己観察を極めすぎちゃってえらい域まで達してるらしいというのはわかるが、そうやって観察する「私」を絶対視しすぎなんじゃないの、とか、お前のその思索を支えているのはお前の身体でも意識でも知覚点とやらでもなくて、ひとえに杉松のたゆまぬ労働だろうが!とか、そのノリ『プラネテス』の3巻でもう見たわー、とか、かつてあんなにファンだった著者に罵声を投げつけてやりたい、それもできるだけいい角度で突き刺さるように、という気持ちがふつふつと湧いてきたことに我ながらびっくりしたが、多分、ある種のあこがれだった、こうして今書いてる文章にも少なからず影響を与えてくれていた相手が思いもよらぬ境地に達していたことがショックだったのかな、と、早速本書を読んで影響された自己観察でもって己を省みた。よくよく読んでみれば、別に世界を冷笑してるわけでも、そこに生きてあくせくしている僕を無意味だと断じてるわけでもなく、単にそう感じる自己を見つめてるだけなのだろうと思う。いっとき腹は立ったものの、基本的には面白く読んだのだ。2000連休を経た後にはめちゃめちゃあっけなくヒモ生活から脱してるし、おそらく今後も上田さんの本が出るなら、楽しみに読んでいくことだろう。上田先生の鬼バズエッセイストとしてのこれからの活躍に大いに期待したい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?