新宿方丈記・16「春の宵」
いつのまにか、季節の変わり目の肌寒さはどこかへ消え去り、世の中はすっかり春の様相である。忙しすぎて病院に行けないまま、先々週から引きずっている風邪もやっと治りそうだ。特に用事のない日曜は大抵、ラジオを聴き、ベランダの鉢植えに水をやり、読みかけの本を読み、アイロンをかけて、1週間無事に(時に無事でない時もままあるが)持ちこたえたネイルを塗りなおす。今宵は少しだけ時間に余裕があるので、古い本を引っ張り出して読んだりもする。私は活字中毒に近い本の虫だが、新しい本を次々というよりは、気に入った本を何度も繰り返し読むタイプの人間だ。おかげで大好きな本は、暗唱できるくらい頭の中に入っている。穏やかな春の宵に、手に取ったのは「ニューヨーカー短編集」。言わずと知れた、アメリカの雑誌「ニューヨーカー」に連載されていた短編をまとめたもので、翻訳は常盤新平。我が書棚にあるのは今は亡き旺文社文庫版で、確か高校生の時に買ったと記憶している。それから随分と長い年月(本当に長い年月だ)、幾度かの引越しにも耐え、誰かに貸して紛失したりすることもなく、ずっと書棚の「お気に入り・大事な本」コーナーに鎮座し続けている。当時この本を手に取ったきっかけは、マヨネーズの広告だった。「ニューヨーカー短編集を食べてみよう」というコピーとともに、アメリカのどこかの、何気ない風景、ダイナーだったり、海だったり、列車だったりの写真と、短いストーリーが添えられていた。まさしく、ニューヨーカー短編集風の。雑誌の1ページを使ったカラーの広告で、シリーズが全部でどのくらいあったかはもう、定かではないが、とにかく集められるだけ集めて、今でもファイルして保存してある。コピーライトは秋山晶。この、飛び抜けてセンスがいいおじさまに、高校生はすっかり洗脳されて、本屋に走ったのだった。マヨネーズじゃなくて申し訳ないけれど。
そしてワクワクしながらページを開き、ゆっくりゆっくりと読んだ。80年代に出版されたその本には、まだかろうじて、古き良きアメリカの匂いがする話がいっぱい詰まっていた。中でも一番好きだったのが、ジェローム・ワイドマンの「父は闇に思う」。夜、灯りの消えた部屋に腰掛け、ただ想いを馳せる父親の話だ。移民の父親は、マンハッタンで、祖国や、遠い日々や、おそらくいろんなところに心を飛ばして闇の中に佇んでいる。悲壮感もなく、不平不満があるわけでも、虚しいわけでもない。この短い話に、私はものすごく影響を受けている。文章の書き方、文章のリズム感、主題の捉え方、何より自分でもちゃんと文章を書いてみようと決意したこと。10ページ足らずの小説が、教えてくれたものは計り知れない。文中に特に季節の描写はないが、私は読むたびに春先の柔らかな空気と、同じく柔らかな闇を思い浮かべてしまう。決して漆黒ではなく、藍色のインクを滲ませたような、優しい闇の色を。10代に憧れたものたちが、そのまま今の自分を作り上げているのだなあと、改めて思う。私が心を揺さぶられるのは、常に憧憬だ。こいつは時々遠慮なく、人の心に分け入ってくる。そんなところまで上がり込んできて、わざわざドアをノックしないでくれ!と思うのに、愛おしくて涙が止まらなくなるのだ。
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