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新宿方丈記・7「夜の水底」

まるで海だった。地下鉄の駅から長いエスカレータを上り、駅ビルの中庭に出ると、夕方から降り始めた雨が静かに世界を濡らしていた。店から漏れる明かりと街灯が、黒く濡れそぼる石畳に光を滲ませ、夜の海が果てしなく拡がっている様だった。3月とは思えないほど寒い空気に一瞬肩が震えたが、傘を開くと思い切って海の中に足を踏み出した。広場を横切った向こうに、駐輪場の入口がぼうっと浮かんでいる。息は白く、呼吸をするたびに顔に纏わりつき、薄手のコートを通して冷たい空気が染み込んでくる。じっとり水に浸かったみたいに。

広場の中ほどに、陶器の平たい鉢を置いただけの人口の池がある。水面を雨が打つ。水面が波打つ。溢れそうでも決して溢れないのは、やはり人口の池だからなのだろう。足早に横を通り過ぎようとすると、真っ黒い水の底に銀色の影が踊る。こんなところに魚がいるのかと少し驚いたが、よくよく見るとそれは、鉢の底に貼り付けられた、銀色の魚の形をしたプレートだった。水の揺らめきと、街灯のわずかな光でゆらゆら漂っている。水は深く、腕を入れても底に触れることすらできない様な、真っ黒い水の底。作り物の魚が生息する都会の中庭。一体何を意味するのか。足元の海は深さを増し、傘を打つ雨の音は激しくなる。物哀しいバンドネオンの響きが似合う。夜の水底に立っているみたいだ、この場所はまるで。

天気のいい暖かな午後に通りかかると、人口の池は白く輝き、浅い水を湛えた水盤にしか見えなかった。池の周りで子供たちが走り回って遊んでいる。銀色の魚は空まで映しそうに輝き、底なしの怖さなんて微塵も感じさせなかった。都会の夜の水底なんて、そんなもの存在しないとでも言いたげに。

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