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「バカの壁」読了(聴了)

一読して思うのは、この本が出版された時期も考えられて、やはり著者の養老孟司さんは賢い学生たちがオウム真理教にいとも簡単に染まっていくのを相当憂えていたのだと思った。

ある程度勉強すると、自分は賢くなったと思う。
勉強している人の間で、またヒエラルキーができていき、一定の勉強量を積んできた人同士が行利用する世界。
東大で教えている養老孟司先生は、彼らが大多数就職して回していく経済についてもこの本で語っている。本の中で表現するならば「実の経済」「虚の経済」。

本当に賢いのならば、これらの経済社会を作る際に、弱いものや失敗したものを救うセーフティーネットがあるはずだと言うのも本著の中でかかれている。

セーフティーネットがないのも、虚の経済ばかりに人々がお金を投資してしまうのも、著者が言うには、人の気持ちがわからない、身体性が伴わない、以上のことが根底にあるのではないかと言う問題提起が通奏低音のように感じられる一冊だ。

そういえば、オウム真理教の麻原について、著者はこういう。麻原は、ある程度ヨガの修行だけはしてきたのだと思う、と。つまりヨガにおいて体がどのように動きどのようにコントロールできるか知っていたと言うことが頭でっかちの学生たちにつけいる1つのテクニックだったと言うことだ。

バカの壁。このネーミングは強烈だった。それぞれが壁を持っている。賢いと思い込んでいる人たちは、賢い人の集う社会の壁。バカの人たちは知能指数に関係なく、思考停止をして閉ざされた壁の中で生きる。

本著は原理主義への言及で終わっている。社会が荒れ、モラルが荒れ、人々の思考は疲弊していく。考えること自体が負担になったときに、宗教や政治は多様性を認めなくなる。それは脳が負担にならないために取った1つの選択であり基準であると言うことだ。

考えることをやめてはいけない。多様性から目を背けてはいけない。居心地が悪くても軋轢を見つめなければいけない。その距離感をないものにしてはならない。

一言二言で表し切れない雑多な関係の中から人は社会を作るべきである。

その煩わしさ、自分が賢く、見えたり、愚かしいとしたりする日々の中で黙々と生きていくのである。

壁を越えていくその思いのために、
ずいぶん昔の本ではあるが、いまだに有効である。

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