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マティス展 2023/5

何年振りのマティスだろうか。初夏の馴染みある上野公園を通り過ぎ、コロナ後の賑やかさが戻る駅からの道。ロダンを脇目に見ながら、初夏の風を味わいつつ向かう。

懐かしいなあ、と、学生の頃の記憶が過ぎる。自由な時間の流れをぼんやりと思い出しながらロッカーに荷物を入れる。コロナや仕事の忙しさの後、美術館に来ても過去に見た企画は避けてきたし、どこか心がさわさわと鳴るような7.8年を過ごしてきた。

そんな心も、美術館を出た頃には大きく深呼吸したいような晴れやかな気分に。豊かな色彩とマティス本人への関心が私の中で湧いていて、来てよかった、良い企画だったとしみじみ思えたのだ。

まず、若い頃と見方がずいぶん変わった。自分として意外だったのは肖像画が面白くなったことか。いままでは興味として、ほぼ最下位のテーマであった。

マティスはその人の本質を、顔まわりを抽象化することによって際立たせている。それが時期により、手法も違う。昔はその明るさと曲線ばかりを見ていた。けれど、マティスが追求していたのは色彩にも負けぬ、その人(もの)の個性や本質だったのだろうと今は感じられる。

またギュスターヴ・モローの死後、まず自画像を描き、色彩の移り変わりにも複数の自己のもつ手法、心の趣やディレクションを被せて描いたのではないか、と感じられた。

形になっていない己の可能性をあるがままに見て取ったということである。自己を鳥瞰図のように眺めた色であろう。

世間では明るい色ばかり取り沙汰されがちに思える。けれど、戦時中の絵を見れば彼の中にはちゃんと闇のセンサーがあり、それでも闇の中にすら、わずかな明度や輝度の存在を慈しみを持ち描いていると見てとれる。
特に「金魚鉢のある室内(1914)」は上記を象徴している1枚と言って良いだろう。

同時期の「コリウールのフランス窓」は、外へつながる存在の向こう側に漆黒の闇がある。

マティスはそれを見つめる。認識し、自分の世界とひとつながりとして見つめなければならぬ。そんな覚悟が立ち上ってくる。

マティスが絵筆をとって、5年から10年の間に彼はきちんと評価を得ている。けれど、やはり本人の葛藤や波風もある中でたゆまぬ探究心がどの作品にも見られる事実は、人間としてのマティスを興味深く知らしめる展示企画であった。

そういえば、キュビズム時代においてよく話したと言うフアン グリス。「キュビズム第3の創始者」と呼ばれるカラフルな作品が特徴だ。

何を話し、何を学んだのかは作品を見ればわかるが、それぞれが晩年どんな絵を描いたのかはまだ比較してない。フアン グリスは死ぬ10年前もキュビズムらしい方法を貫いているように見えるがマティスはどんどんシンプルに削ぎ落としていく中で最後は人間のイメージ喚起にはたらきかけていく、おおらかに見えて厳しい取捨選択をしていく。切り絵の色は点描の頃のグラデーションはないし、デッサンはいよよシンプルとなる。

人生の終焉に向かうにあたり、どんな伝え方をするか。表現をするか。そこが、中年の自分には新たな興味だったらしい。

また昔見た絵画を、画家をみるのも悪くはない。

美術館を後にして薫風の中で生ビールを飲みながら、ふと目の前をとおった女性に驚く。少し若い頃の私に似ていたのだ。1人おかしくなって笑いを噛み殺しながら勢いよくビールの残りを飲み干した。

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