他人をコントロールするのは不可能だという当たり前のこと

誰かの言葉に傷つき、誰かの言葉に気づかされて生きるのが人間。

ーーーーーーーーーーーーー


SNS上や身近な人たちの議論を耳にする度、考えることがあってやっと気づけたことがある。

信じていたのに裏切られた。
なんていう言葉は何とも無責任で聞くだけで嫌気がさしてしまうのだけど、そうやってわたしたち人間は考えてしまいがちである。みんな自分の都合の良いように物事を捉えたいのだ。
信じていたのはこちらの勝手だし、そもそも相手の感情や思考に絶対などあるはずがないのに。

誰かと議論になったとき、自分が正しいことを主張するばかりの人は多いと思う。議論の目的がそもそもなんなのか定まっていなかったり、相手を論破したいがための議論になっていたりすることもある。

なんであなたはこう考えられないんだ、なんでこういう考え方になるんだ、こっちの方が正しいじゃないか…。

そもそも物事には表裏があるように、正しい正しくないと意見が分かれるのが当たり前のこと。なのに自分の意見が正しいと固執しそれを相手にぶつけることは 議論という概念からかけ離れているのである。

どうしても理解ができないことがあってもそれはそれとして、一度受け入れる必要がある。他人の考えや行動はどうしたってコントロールなどできないからだ。
受け入れた上でどこで落としどころをつけるか、そこから自分はどのような行動を取れるのかを考える必要がある。決して他人の考えや行動をコントロールしようとしてはいけないし、できない。
他人が変わることを諦めることしかできないのだ。

ーーーーーーーーーーーー


そんな当たり前のことを忘れがちになっていた時期があった。
自分のことが正しいと固執するあまり(それは自分に自信がないことに由来するかもしれないけれど)、どうしても感情的になりしんどい思いを抱え続けてしまっていた。

なんで?と苛立つのは相手の意見が理解できないからだし、意見を変えて欲しいから。

倫理的に間違っているのであれば意見し続けたり自分を振り返る必要がある。だけどそれ以外の意見は、もうそれはそれとして認めてしまうしかない。その上で譲歩できるところ、できないところを確認し合えばいい。

感情的になるとどうしても客観的に物事を見れなくなるし、自分も他人も責めてしまい精神衛生上とても良いとは言えない状態になる。
感情は雲のようなものと捉えて、一旦通り過ぎるのを待つ。泣いて泣いてたくさん鼻水を垂らして感情を思う存分洗い流すといい。そうすると客観的にものごとを見れる時間が来る。

人は自分自身でしか変わることはできないのだ。誰かからきっかけをもらうことはあろうと、誰かができることはそこまでなのだ。

まずは「わからないこと」を認めることが大事なのだと思う。

#エッセイ #備忘録

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?