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雨の日の思い出から見る、わたしの考え方。

タイトル詐欺のようだが、雨の日の思い出は特にない。
晴れの日や雪の日はあるけれど、雨の日はこれといった思い出が浮かんでこない。
ということで、半ば強引に思い出したのは、土砂降りの中、たった30秒ほどのために友達を巻き込んで4時間近くご贔屓の出を待っていた寒い日。
終電までと決めたはずなのに、諦められずに待ち続け、高いタクシー代を払ってホテルへ戻ったあの日のことを思い出した。

わたしのヅカヲタメモリアルは別の機会に辿るとして、この日のことを思い出した瞬間に「あぁやっぱりわたしは昔からそうなのだ」と痛感したことがあるのでそれについて書いてみる。

まず、わたしは人づきあいがすこぶる悪い。
相手が誰であれ、行きたくなければ誘われてもスパッと断ってしまうことが常である。
合わないと感じた人のことも切ってしまう。

ヒトモノ問わず、好き嫌いに重きを置いて判断しているのだ。
では、なぜそこまで徹底するのか。
それは、責任の所在を自分にするためである。

例えば、上司に飲み会に誘われたとする。
本心では行きたくないのに、上司の顔色をうかがい参加したとしよう。
行ってみると、やっぱり楽しくない。または、そこそこ楽しめはしたが疲れたし出費になった。
そうなると、「行かなければ良かった」という思いが湧いてくる。
ではその後はどう思うだろう。
わたしはきっと「上司が誘ったせいで、ものすごく疲れた」、「上司のせいで、予定外のな出費になった」と考えてしまうだろう。
これは相手が友達だとしても同様だ。
楽しくなかったとき、満足しなかったとき、わたしはきっと、相手に否があるとして責めてしまう。
心にモヤモヤがたまったり、相手に抱く印象が勝手に悪くなったり、負のループになりかねないのだ。

また別の例えばだが、友達との旅行中にどうしても立ち寄りたい展示会と出会ったとする。
今を逃すと、もうチャンスはないかもしれない。
けれども友達は展示会の内容に興味がゼロである。
ここで諦めたとすると、わたしは後々までずっと後悔するだろう。
そして「友達が一緒だったから行けなかった」、「一人だったら立ち寄ったのに」と相手を責めるのだ。
自分が立ち寄らないと決めたくせに、相手のせいにしてなぐさめようとする。
そうするときっと、旅の思い出にももやがかかってしまう。

だから、自分が行きたいと思えないものは行かない、苦手だと思う人とは付き合わない、やりたいと思うことはなんとしてもやるのだ。
自分が心から望んで決めたことであれば、責任を誰かに押し付けるという逃げ道を作れないからだ。

行きたいと思って行ったものが楽しくなくても「行くと決めたのはわたし。勉強になって良かった!」
苦手な人からフェードアウトしてとやかく言われても「フェードアウトを決めたのはわたし。やっぱり合わないタイプだったから良かった!」
やりたいと思ってやったことで失敗しても「やると決めたのはわたし。やらずに後悔しなくて良かった!」

自分が決めたという強い思いがあると、すべて納得できる。
冒頭のエピソードも、友達に申し訳ないからと何度も「もう帰ろう」と思った。
もしあの時、本当に帰っていたら、きっとずっと後悔しただろうし、自分を納得させるために「友達がいたから仕方ない」と言い聞かせたに違いない。
今もあの日が楽しい思い出として残っているのは、友達がわたしのわがままに付き合ってくれたというところが大きいのは大前提として、「会えるまで待ちたい」という本心に従った行動だったからだと思う。
ありがとうの気持ちは忘れずに、これからも自分の好き嫌いに従って生きたいと思った。
わたしは自分のこの考え方がなかなか気に入っているのだ。

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