見出し画像

書く旅は始まったばかり



初めて文字に触れたのは3歳ごろ。
おまけで連れて行かれた母が通う書道教室で、「つ」と「し」の文字を書いた。
程よい形に削られた2Bの鉛筆の滑らかな書きごこちにすっかりとらわれてしまったことと、また朱色の花丸がもらいたくて、私の「書く」は始まった。

書くことが楽しかった。ひらがな一文字は二文字になり、マスが小さくなり文字数が増え、カタカナ、漢字が加わって、文字から言葉、やがて文章を書くようになった。

私の興味は、文字の造形を美しく模写することから、意味を持つ言葉の羅列の美しさに向けられるようになった。

母はよくメモを取る人だった。買い物の食材、電話しながらの箇条書き。
電話機の周りは母のメモであふれていた。
子どもの私にはなぜだかそれがカッコよく映った。早くあんな風にさらさらと空で文章を書いてみたい。かといって、文章自体は思い浮かばない。
テーブルに置いてある新聞や雑誌の一文を、意味もわからず真似て書くことにハマった。
そこから派生して、印象に残った言葉、ドラマの台詞、誰かの歌う歌詞などを書いたりするのが密かな趣味になった。

読書はあまりしなかった。夏休みの絵日記、小学校高学年で流行った交換日記以外で「日記」というものも書いたことがない。心の中のことを文字にして、それが家族に読まれることに抵抗があった。
そのぶん、頭の中では常におしゃべりしていた気がする。誰にも覗かれる心配のない自由な空間でのおしゃべりも、ある意味密かな趣味だったかもしれない。

テーマや制約はあるものの、作文や読書感想文は日ごろの頭の中のおしゃべりの絶好の公開の機会だった。評価はどうでも良かった。
自分の気持ちを吐露することは、心の中がデトックスされるような清々しい感覚だった。

大人になってからも、文章に関わる機会は多かった気がする。
テレビ番組のフリップ・テロップの制作、記事データベースの要約、子どもの学校のPTA書記、自治会書記、テレビ番組モニター。
大学の通信教育学部での心理学の学び直しでは、何十年ぶりにレポートも書いた。
思い返せばその時々で、形は違えど文章に触れてきた。「書くこと」に関わり続けようとしてきたところもある。

学び直しのなか、
「心理学にもっと低年齢で触れる機会があったらいいのに。もっと身近に心理学を感じてもらうことはできないかな。」 
 などと考えるようになり、
「その気持ちを自分の言葉で文章で伝えたい」
 と思うようになった。

 初めて「書きたい」と心の底から思った瞬間。

学んだこと、経験したこと、体験したこと、感じたこと、頭の中でいつもおしゃべりしてきたこと。
私の頭の中の引き出しは、今が1番充実していて満ちていると思えたからかもしれない。

そんな矢先、偶然このnoteに出会った。

自分の言葉を綴ることは、頭の中の引き出しを片っ端から開いて、そこに心血を注ぎ込み絞り出すような作業だと思う。時には開けたくない引き出しを開けなければいけないこともあるだろう。それでも書いてみたい。

今、「書くこと」は私にとって何か大切なテーマではないかと感じている。
漠然と「つ」と「し」を書いたあの日のワクワクを感じている私がいる。

「書く旅」はまだ始まったばかりだ。


今回、編集者の藤原華さんの自主noteコンテストに参加させていただきます。

素敵な企画を考えてくださった藤原華さんに
この場をお借りして心から感謝申し上げます。

noteで出会ってくださった皆さまにも感謝の気持ちでいっぱいです。
素敵なプラットフォームを見つけることができて幸せです。


最後まで読んでいただきありがとうございます😊

                 mana

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?