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曽野綾子『悲しくて明るい場所』

もっと小さなことに喜び、世間がではなく、自分が喜べることを喜べばいい、ということも、
私は人生の比較的早い時期に知った。

自分が喜ぶができる時代となった。

いい時代だと思う。

どのような時間が「楽しい時」それはそれは人によって違うだろう。

違っていいのだし、違うべきなのだが、

人は勇気をもって自分だけの「楽しい時」を持つべきなのである。

自分が楽しいと思うことが

何であるのかを

まずは自分で分からなければ

楽しい時とはならない。


それが分からない時に

人がやっていることに流されるのだろう。

それはそれで楽しいと思うのなら

いいのだろうけれども。


だから

ほんとうに楽しいものを見つけれらた人は

幸せなのだ。

いずれにせよ、

正しく相手の言ったことを記憶するなどということ、

正しくその時の状況を把握するなどということ、

正しく他人の心理を理解するなどということは、

ほとんど不可能と思ったほうがいい。

苦しい思いを

自分の記憶の中で反芻して

いつも

まざまざと

辛い思いをするのであれば

いっそのこと

その記憶を

自分を救うものに

書き換えてもいいと思う。


すべてを記憶するということはできないのなら。

暴力を振るう人は、強いのではなく、弱い人なのだ、ということも知った。

小さい子どもは言葉が上手くしゃべれないから

つい手が出てしまうこともある。

そういう感じで

自分の心のコントロールが上手くできない人が

暴力をふるうのだろうか。


弱いことは悲しいことだ。

親しく付き合っている人とさえ、

部分的には遠くに身を引き、

いつもその人のことはよく知らない、

と他人の言える慎ましい関係が私は好きだ。

曽野綾子は

親しい人について取材を受けた時にも

知りませんと貫いた。

人は
5メートル以内に近づかなければ、
大抵の他人に被害も与えず被害も被らなくて済む。

人に近寄りすぎないこと。


深く付き合うことがなければ

知らなくていいことや

気付かなくていいことから

離れていることができる。


そんな距離感が大事。

人脈は、それを利用しなければ、自然にできる。

人を利用しようとする時から

堕落が始まる。

この世で、私の身の上に初めて起こったというような恥はない。

そんなふうに考えるのは、むしろしょった行為である。

私が苦しんでいるような恥は、

もう、

この地球上で、
数万、数十万人の人が苦しんだことなのだ。

みんな似たような経験をしている。

たいがいのことは

大丈夫。

理想どころか、平均値も求めないことだ。

平均とか、普通とかいう表現は

慎ましいようでいて、じつは時々人を脅迫する。

理想や平均を持ち出すこと自体が

脅迫する行為となる。

笑うということは風穴を作ることである。つまり圧抜きだ。

笑いには技術がいるのだ。

人を傷つけるいやらしい笑いは本当にやめてほしい。

得をしようと思わない。

それだけでもう九十五パーセント自由でいられることを私は発見したのである。

得をしようとすると争いがおこる。


争い奪い合うのではなくて

分かち合ってほしい。


欠乏に対する不安から

争いがおこる。


落ち着いてデータを見ることで

平和になることができると

明智光秀が言っていた。




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