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小川洋子『約束された移動』

(あらすじ)

 この『約束された移動』には多くの物語が出てくる。

ハリウッド俳優Bのデビュー作の映画の中での誤解と偶然から思いもよらない結果となり打ち沈んでいた時に、延々と川沿いの道を歩きながら、幼い頃祖母が繰り返ししてくれた「象の行進の話」を主人公であるBがつぶやいているというシーン。

その移動は「約束された移動」だった。

そのシーンではBGMはなく象の足音と彼のつぶやく声だけだった。

ただ黙々と歩き続けながらその象の話をつぶやいている。

辛い時にいつもつぶやくというその話。


その映画を繰り返し繰り返し見ている私。

すでにそのシーンまで目をつぶってでも再生することができるまでになっていた。


そして、私が休憩時間に行くホテルのマッサージ部の主任さんの話はいつもお客さんの悪口ではなく、何かしらの美点がにじむエピソード。

主任さんがいつもヨガをする星座のポーズは、いくらでもあるという。

牛飼い座のポーズ。


そして、Bが泊まったロイヤルスイートの書棚の中の隙間にあった本の物語が加わる。

始めにその書棚からなくなった本は、『無垢なエディンバラと無情な祖母の信じがたい悲惨な物語』

途中エディンバラは祖母から解放されて、ただただ逃げ出して移動していく。

私の中で、象とエディンバラとBの足跡が重なり合う。


一年後、書棚からなくなったのは、『闇の奥』。

本の主人公のマーロウ船長がコンゴ河の奥を目指して移動する。

鎖でつながれた黒人たちの列に出会い、柵の杭に刺さった微笑んで見える生首を見る。

これでBの側にいる私の中で、象と無垢なエディンバラとマーロウ船長が加わる。


主任さんの仕事終わりのアイスの話。道路工事のおじさんと食べる夜明けの自動販売機のアイス。

主任さんにいつもリクエストする国務長官の話。

独裁者から逃れて亡命した過酷な人生の中で、兄が印刷工場で働いてくれ、自分が一族の中で初めて大学に進学したという話。

マッサージを中断して、胸のポケットから兄の写真を主任さんに見せる国務長官。

テレビでは決して見せない笑顔を主任さんに向ける国務長官。


その後、ロイヤルスイートの書棚からは毎回1冊ずつなくなった。

アントニオ・タブッキ『インド夜曲』、アラン・シリトー『長距離走者の孤独』、サン=テグジュペリ『夜間飛行』、アガサ・クリスティー『オリエント急行殺人事件』、アンデルセン『絵のない絵本』、ライマン・フランク・ボーム『オズの魔法使い』、ケネス・グレーアム『たのしい川べ』

移動し続けるBの邪魔をしないように、私は後ろからそっとついて行った。

客室に残されたBの栗色の髪の毛を十本ずつ束にして名札の裏側に仕舞い、ともにいることに幸せを感じる。

美しい髪は曲線となり、レースの模様のようだと主任さんは褒めてくれた。


やがてBの人気は落ちていき、私生活のトラブルのニュースが目立ち、さらにエスカレートしていく。


Bが最後の宿泊したのは、初めての宿泊から既に三十年以上たっていた。

部屋の様子は何一つ変わらず几帳面で、清潔で、穏やかだった。


最後の本はスタインベックの『怒りの葡萄』の上下巻。


自分で動けない植物の知恵。

一匹のリクガメが草原を歩いている時、体と甲羅の間にカラスムギが挟まる。

途中トラックで転がりさかさまになった時、カラスムギが一粒、砂埃の中に落ちる。

忍耐強く体を元に戻してカメはまた歩き始める。


改造トラックに乗った家族が砂嵐の中走っている。

農地を追われた一家十三人は新しい土地を求めてひたすら西へ西へと移動してゆく。途中で 老いた人が死に、兄と義弟は姿をくらます。次男のトムは暴力事件の巻き込まれる。移動しても移動しても、まともな仕事はなく、差別され、搾取され、使い捨てにされるばかり。

目的の見えない不安に耐えながら、Bはトラックの後を追う。

「めげてる余裕はないんだ」

と母が言う。その声がBを鼓舞する。

「行くしかないなら行こうよ」

再びBは歩き出す。カラスムギの挟まったリクガメのように、私はBの後ろ姿を追いかけてゆく。

Bがどれほど落ちぶれようとも彼がいかに困難な道にも怯まない勇者であるか、私は知っている。だた客室係のみ託された秘密を私は守り続けている。

彼は多くの主人公たちとともに、今も行くべき場所に向かって移動し続けている。

(感想)

ハリウッド俳優のBの主演の映画のつぶやく祖母から聞かされていた話。

どうしようもなく辛い時にその祖母の話を繰り返してつぶやく。

その約束された移動の象の話の上に、ホテルのロイヤルスイートの書棚からの本の話が重なってゆく。

どれも移動の話だ。

私は客室係として部屋に残されたものや気配から感じ取るものがあり、そして書棚からなくなった本を通してBとの秘密を持つ。

マッサージ部の主任さんは、いつもお客さんの何かしらの美点を語るエピソードを話してくれる。人にはおそらく何かしらの美点が必ずある。


なくなった本を読み、いつもの映画を見ることで、私はBの移動を見つめて後ろからそっとついてゆく。

Bの人気が落ちてひどいゴシップが流れても、私はBの穏やかで真面目で落ち着いているけれども、いつも何かを求めて移動し続けようとしているという一面を知っている。


Bを鼓舞する一家の名もない母の力強い声が聞こえてくる。

そうなのだ。

Bは確かに今も移動し続けている勇者なのだ。










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