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松坂大輔引退発表

※ヘッダー画像は「埼玉西武ライオンズオフィシャルHP 70周年シリーズ特別サイト」より拝借しました


とうとうこの日が来てしまった

7月7日の深夜未明、スポーツニッポンのTwitterより松坂大輔が引退を決断したとのニュース



今年は春野で行われた春季キャンプには参加していたが、そこからは音沙汰なしといった状況で、7月5日に掲載された「文春オンライン」では行方不明だの、支配下登録枠の無駄だの書かれる有様

引退時期に関しては、今年の7月までに二軍で実践復帰できなければ、9月以降の一軍復帰は間に合わず、現時点で練習に復帰したとの情報はないので厳しいのは理解していたし、支配下枠に関しては「松坂のためなら枠の一つぐらい、いくらでもくれてやるわ!」というのが私の気持ちだったので、この記事に関しては全く気にならなかったのですが


松坂に対する最初の思い出といえば、1998年に行われた夏の甲子園で、当時私は大阪のなんば駅近くでバイトをしており、お昼休憩で時間をつぶしていたところ、待ち合わせスポットとして有名だった「ロケット広場」に設置していた街頭テレビで8回と9回の逆転劇を見て、とんでもないことが起きているとゾクゾクした気持ちになったのを覚えています

ドラフトではわが愛するライオンズが指名権を獲得し、難航はしたものの入団。晴れてライオンズの松坂大輔が誕生

そしてプロデビュー戦。当時の堤義明オーナーは開幕二連戦が行われる西武ドーム(現メットライフドーム)で松坂を投げさせろ!と言ったか言わないかは不明ですが、本人が言わなくても周りが東尾監督にプレッシャーをかけていたはず

しかしデビュー戦を勝たせるべく、周りの意向を敢然と無視し、マウンドが高く傾斜の強い東京ドームで、相手先発投手の格が落ちる4~5番手と投げさせるため、開幕2カード目(4戦目)に先発



松坂がそれを意気に感じたかどうかはわかりませんが、オープン戦では打ち込まれることが多く「本当にプロで活躍できるのか?」と私も半信半疑なところ、先頭の井出竜也に対して149キロのストレートを投げた瞬間、球場の雰囲気が一変。球場にいた人、私のようにテレビやラジオを見聞きしていた人ほぼ全員が「こりゃ本物だわ」と場の空気を支配しました

松坂を振り返る際、片岡篤史から三振を奪った155キロのストレートが必ずと言っていいほど紹介されますが、私にとっては初球のストレートがすべてだったような気がします



こちらに全登板記録を載せたサイトがありますが、改めてその登板数の多さに驚くばかりです

高卒一年目のルーキーがいきなり180イニング、2980球も投げているのが凄いし、これはNPBだけの数字であり、松坂には「日本代表のエース」として奮闘してきた歴史があります

初めてプロとアマが混成となったシドニーオリンピックアジア最終予選では、二枠を巡って日本・韓国・チャイニーズタイペイが争う形となり、チャイニーズタイペイを潰してしまえという作戦の元、決勝リーグ初戦に登板



その松坂は9月2日に中5日で先発して137球完投。それから三日後、9月5日にはリリーフとして緊急登板し、41球を投げ、チームに勝利を呼び込むと、またもや三日後、9月8日の首位ホークス戦に先発

しかし、秋山幸二の左ほほに当てるなどした結果、左でん部を痛め途中降板。そして六日後にチャイニーズタイペイ戦で先発とただただ異常な登板を繰り返しています


この大会はプロとアマ、それぞれの野球界にとって「絶対に負けられない戦い」であり、その大事な試合を19歳になったばかりの松坂に任されるというのは、本人にとってどれだけの重責だったか。想像するだけで吐きそうになります

キャッチャーは当時34歳、円熟味を増した球界ナンバーワン捕手の古田敦也。結果的に唯一となった夢のバッテリーは、古田のリードと今で言うところのフレーミング技術、それに応えて熱投を続ける松坂のピッチングが見事で、いま見ても素晴らしいです

9回を1失点に抑えると、その裏にサヨナラ勝ちしたことで責務を果たし、日本代表もオリンピック出場権を獲得。この登板後、ライオンズはまだ優勝の可能性が残っていたこともあり、中5日で先発。とにかく投げ続けたルーキーシーズンとなりました


翌年に行われたシドニーオリンピックでは初戦のアメリカ戦で延長10回138球を投げるも、チームはサヨナラ負け。その後、中5日の韓国戦に先発するが、161球の熱投むなしく敗戦。準決勝のキューバ戦に負け、韓国との三位決定戦に中3日で再び登板。しかし8回に李承燁に打たれ、銅メダルを逃す結果になり、登板した三試合すべて勝ちに繋げられなかったことで松坂も戦犯扱いされることに

四年後のアテネオリンピックでも準決勝で先に失点し、それが決勝点となって敗戦と、とにかくオリンピック(というより金メダル)とは縁のない野球人生でしたが、その代わりに大活躍したのが2006年から始まったWBC

二連覇に大きく貢献したが、そこでの無理が祟ったのかその後は怪我との戦いとなり、いま思えば2009年の春がまともに投げられた最後だったように思います。そう考えると今年の夏、甲子園を目指している高校生は5~7歳なわけで、彼らの多くは全盛期の松坂を見ていない可能性も高く、隔世の感があります


松坂「そうですね…。やっぱり、投げることが好きなんじゃないですかね。若いときに東尾さんにかけてもらった言葉を実践してきて、野球人生で積み重ねてきたものを活かすのが今だと思っています。それから、200勝を達成したい、一歩でも近づきたいという想いも年々強くなっています」


これはヘッダー画像にも拝借させていただいた、70周年シリーズの特別サイトに掲載されている東尾修さんとの対談で「ライオンズで何をやりたいか?」と聞かれた際の答えですが、これだけ投げるのが好きな人が最後、指の感覚が無くなり、思い通りに投げられなくなるのは悲しい限りです


現在、体調面・精神面ともに万全ではないこともあり、会見すらできない状況で引退試合のことを語るのは早急すぎますが、勝敗にかかわる一軍での引退試合は松坂本人が断るのではないでしょうか?

それならやるとしても髙橋朋己のように二軍で一人にだけ投げて、終わるような気がしています

ちなみに松坂はライオンズの選手として2002年7月30日に一度だけ二軍での登板機会がありますが、その日は西武ドーム(現メットライフドーム)で行われたため、西武第二球場(現CAR3219フィールド)での登板は一度もなし



引退試合で初めて、第二球場で投げることになるのか?松坂に対して、ハレの場を提供しないとなれば批判もあるとは思いますが、藤川球児のように一軍で投げられるレベルのボールであれば何の問題もないものの、指の感覚がないと言っている投手が一軍で投げるのは個人的によろしくないと思っています

とにもかくにも表に出られるまでコンディションが戻れば、引退会見を開いてほしいし、引退セレモニーは盛大に行って送り出してほしいと願っています


相変わらずとっ散らかった文章になっていますが、怪物と呼ばれた投手のデビューから引退までを見ることができ、そして最後はライオンズの松坂大輔としてプロ野球人生を全うしてくれたことに改めてお礼を言いたいです

本当にありがとう。そしてお疲れさまでした


では👋👋

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