元寇船、ヴァーサ号、タイタニック、……母なる「うみ」に眠るモノたちは語り続ける
本と人と――帝京大学出版会顧問のコモンせんす(7)
今回の本:高橋裕史編著『「海」から読みとく歴史世界』(帝京大学出版会帝京選書002・2024年11月初版第1刷発行)
10年ほど前、欧州旅行の途上、北欧に駐在する知人の日本国特命全権大使を訪ねたことがある。
「大使公邸で公邸調理人の日本食でもいかが?」と誘われたが、丁重にお断りして大使夫妻と地元のレストランで歓談した。日本国の税金を使わないように、もちろん自己負担はした。往復の「足」だけは日本製の公用車「レクサス」に乗せてもらったが、そのことには、いまだに後ろめたさが残る。
大使はぼやいていた。日本の国会議員や皇族などの「視察」への「接待」に忙殺されるとのこと。来訪客の中には、ストックホルムの「ヴァーサ号博物館」に行き、17世紀に建造直後に沈没して1961年に引き揚げられた軍艦を外から見るだけでなく、実際に中まで入ってみたい、という要望が少なからずあるが許可が出ない、ということだった。
今回の本の論考の一つ「水中に残された歴史を読みとく」(佐々木蘭貞・帝京大学文化財研究所准教授)で記述されているように、英国のチャールズ皇太子(当時)は船内に入るのを丁重に断られ、日本の皇太子(同)も船内には入っていない。一方、佐々木准教授は研究者として訪れたため船内に入ることができたという。ノーベル賞を一大看板とし、研究を大事にするスウェーデンという国の矜持を感じさせる。
私がストックホルムを最初に訪れたのは1970年代初頭だが、引き揚げ後の整備中で見ることはかなわなかった。10年ほど前の再訪時には、博物館はストックホルムで最もにぎわう観光地となっていた。ただ、展示物のヴァーサ号の周囲を子供たちが走り回っていて、落ち着いてみられなかったことが残念であった。
しかし、佐々木准教授の論考に接し、ヴァーサ号について、その建造のいきさつ、沈没の原因、引き揚げまでの経緯がよくわかり、当時にこれを読んでいたら、現場での見方が一味も二味も深くなっていたのだろう。
同准教授の論考は、長崎県松浦市の鷹島沖で見つかった、鎌倉時代の元寇で沈没したモンゴル(元)軍の船についても言及がある。
2024年10月11日に同市教育委員会は3隻目の船の一部とみられる木材などを発見したと発表している。この記事を私は興味深く読んでいただけに、その後に刊行された本書の佐々木准教授の論考の中の「第2章 元寇船の発見」にはぐいぐいとひきつけられた。調査の歴史から紹介し、発掘された「てつほう」や木材、いかりなどから、船の大きさ、隔壁を持った船の構造を、事実に基づいて、達意で説得力のある文章で綴っている。それもそのはず、同准教授は鷹島に数カ月住み込んで、発見された木材の観察・分析をし、研究成果を修士論文として発表しているのである。
論考はさらに、「第7章 外国船漂着と国際交流」の中で、明治時代に和歌山県串本沖で座礁し死者・行方不明者587人の犠牲者を出した「エルトゥールル号遭難」も採り上げている。串本の住民が遭難者を手厚く介抱した美談は、トルコでも語り継がれ、1985年に起きたイラン・イラク戦争の際に、イランから脱出できなかった日本人のためにトルコ政府が、エルトゥールル号遭難時の「恩返し」として救援機を用立てたことは記憶に新しい。
私が所属する日本記者クラブでは、遭難を題材にした日本トルコ合作映画『海難1890』の試写会を催し、在日トルコ大使館要人が講演した。これに感銘した私は後に、トルコを旅して人々の「親日感情」を実感した。もっとも、トルコじゅうたんを2枚も買う羽目になって、現在でもそれは、狭い我が家で大きな存在感を示している。
現代人が海に眠る沈没船や海底遺跡に対し大いなる関心を抱くのは、ただ単に財宝をめぐる思惑だけではなく、そこに秘められたロマンや謎を解明したいとの気持ちもあるのだろう。それらには混乱や悲劇も付きものである。沈没船の積み荷の所有権をめぐる探索会社と現地国家との争い、海底のタイタニック号を見るために潜水艇に乗り込んだのはいいが、遭難死した大富豪たち……。
地球の面積の約7割を占める「うみ」。未開発の資源もあろうし、古来の歴史遺産も眠る。
漢字の「海」には「母」の字が含まれている。母なる「うみ」はこれからも、われわれの知的好奇心をくすぐり続けることだろう。
(写真はヴァーサ号)