2024年4月 自然のひとかけら

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3日

4日

5日

6日

7日

8日
お気に入りの自転車にのって、荒川のお気に入りの土手へ。
故郷と似てるからだろうか。やっぱり川の傍が落ち着く。でも、山に囲まれた故郷と違って、四方八方にどこまでも続く広い空は清々しく沸々とうれしい気持ちになる。ここは雄大な山々や生き生きと生き物が住む河原ではないけれど、河川敷と空の継ぎ目の地平線やそのあいだにある幹線道、どこまでも続く電塔が優美に聳えている様子を見ていると、ここにもまた東京なりの自然と風景の情緒があるのだと確信する。

今日は今日であるからいい。空の雲が刻一刻と移ろっていくことに少し救われた。


地平線にずうっと続いていく雲と電塔を見ていると、とても懐かしい感覚になる。
それは、故郷の山の稜線とそのあたりにある雲を眺めているときにも起こる感覚で、昔に見た大好きな映画のワンシーンを、遂に思い出せそうで思い出せない、忘れ難い「何か」の端に触れたような感覚だ。懐かしく、尊く、心底愛おしく、満ちていてどこか寂しく悲しいきもち。「いつでも何度でも」が流れてきて、この感覚は一体なんなのだろうと度々こうしてふと不思議に思う。おおきな謎。

9日
週末のあの忘れ難いきらきらした感覚に生かされている。幼い自分と邂逅したからか、2日連続で実家にいる夢を見た。

10日

11日

12日

13日
宇多田ヒカルの特番で、彼女が「どんなに昔の音楽でも、出会った瞬間にそれが新譜になる」って言っててよかった。


14日
深川の映画館strangerでビクトル・エリセの《瞳をとじて》
細胞ひとつひとつの記憶や海の記憶、宇宙の記憶や折重なるわたしの魂の記憶、先週末に触れた一片のなにか、目が覚める直前の夢うつつのまどろみ
一度あったことは思い出せないだけできっと忘れていない


15日
心底愛している曲からは、味とか、香りがする

16日

17日

18日
すきなひとたちと飲む時間がいちばんたのしい

19日

20日

21日
今日は職場の人の紹介でたけのこ掘りに小田原へ!
鍬を使って無心で土を掘った。たけのこ掘りは、想像以上に体力が要る。思いっきり振りかぶっても張り巡らされている地下茎につっかえてなかなか思うように掘り進められなかったり。
レクチャーを受ける中で、たけのこの生え方を初めて知った。竹を横に倒したような地下茎と呼ばれる根っこの節々から、どうもたけのこは地上に芽を出して、やがて空に向かって伸びて立派な竹になっていくらしい。それそのものが単一に自生しているのではなくて、バラバラに見えるたけのこたちは、目に見えない土の下でちゃんとひとつに繋がっている。だからこそ、トマトの芽かきみたいに、むしろ適度に採ることで全体として良いものができるそうだ。

そのなかで美味しいたけのこを見極めるコツは、土からほんの僅かに顔を出しているたけのこだ。膝以上に伸びてきているものは、もうすでに竹になりかけているたけのこで、アクが強くて食べられないのだそうだ。しかし、数センチ顔を出している短そうに思えるたけのこでも、掘り進めると無限に地下に続いているんじゃないかと思うほどに長かったりする。地中の長さに驚きつつ無我夢中で掘っていくと、途中から目の前のたけのこに対してだんだん愛のようなものが生まれてくる。その深さは目の前のたけのこが地中深くから伸びてきた深さであり、その成長の過程を、わたしはひとつまたひとつと、鍬を振り下ろしながら遡るように追体験していた。土の中から頑張って少しずつ大きくなってきた、その長く尊いこれまでを綺麗に採りたい、その一心で掘り進めた。
そして遂に根本に行き当たり、地下茎のほんの手前で綺麗に一本取れたときの嬉しさ...!
さらにこれをまた自分で食べることを想像すると胸が高鳴った。
結果4.5キロのたけのこを採って、家に帰り一人暮らしの一口コンロで3周アク抜きをし、煮て焼いて炊いて美味しくいただいた。
食卓に至るまでの生きものの物語(どんなところで、どんなふうに育てられて生きていたのか、どんなふうに採集されたのか)を知ること、あるいはそれに思いを巡らせること、自分の食べる食べ物を自分の身体を使って採集する、この一連は体感してはじめてとてつもなく尊い営みなのだと知った。

22日

23日

24日

25日

26日
反芻する永遠の1秒。
うつくしさの信念を抱えながら、なるべくありのままに柔らかく、軽やかに生きるひとのこと。

27日

28日
だいすきな角銅真実さんのライブへ!
表参道にある能楽堂銕仙会 で開かれた「緑光憩音」というシリーズのライブで、3年前にみた青葉市子さんと奄美の唄い手である朝崎郁恵さんのデュオライブもたしか銕仙会での緑光憩音だったと記憶している。能楽堂やお寺、神社の音楽イベントは素晴らしいのでもっと増えるべきだ。

緑光憩音というその名の通り、車やひとの多く行き通う表参道の一等地とは到底信じられない異空間が演出されている、東京のオアシスのようなライブ。
雨の日の森みたいなお香の匂い。能楽堂の木の温もりのなか、畳の上で角銅さんの音楽を聴きながら、この世界の一部である感覚、自然と密に繋がっているのをひしひし感じた。
角銅さんの音楽は、いつも物凄い「生命力」を感じる。情熱的ってことではなくて、有機的で複雑怪奇なおもしろさに満ち満ちしている。しかもそれが、外部のものとして完結しないで、聴いているわたしの中にも流れ込んで新しい小さな爆発が次々起こるのだ。日々の雑念で絡まった糸玉がするすると解けていくように、蛸の足や蔓みたいに伸び伸びとわたしの輪郭線がそこかしこに広がっていく。肌に流れる透明な想いと無限の可能性の感覚を思い出して、胸の奥底からお湯が沸騰するようにエネルギーが沸々と湧いてくる。

ライブ終わりお手製のかわいいたこくらげをGETした。

この世界のどこかにいる片割れの兄弟「聖電気1」、知っているひとは一報ください。

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