クララが教えてくれたこと


『クララとお日さま』 カズオ・イシグロ
#ブクログ


2017年にノーベル文学賞を受賞してから、はじめての長編小説の「クララとお日さま」。


AIのクララが病弱の少女・ジョジーと出会い、友情を育んでいくといった、AIが出てくるハートフルSFによくありそうなお話で「泣ける話なんだろうなー」と想像しちゃいました。

装丁カバーのそで部分には「愛とは、知性とは、家族とは?」と書かれていたら、便利なものに囲まれて大事な何かを忘れつつある現代人に、大事な何かを思い出させる、あるいは考えさせるような物語と想像する人もいるはず。

とくに、「何か忘れている」と、漠然と感じているけど、それが何かわからない人にとっては気になる文句。

読んでみると視点はAIであるクララが見る世界を、クララが感じたまま、クララと同じ知識・価値観で描かれています。クララの目線で同じように世界を見ながら、出会った家族、ご近所さん、家族以外の大人の人間、ジョジー以外の子ども、そして、あたたかい栄養をくれる「お日さま」を、私も「見ていた」と感じる文章でした。

たとえば、視界いっぱいに広がるほど大きな滝は

滝だけで八個のボックスを占めるほどでした。
クララとお日さま

なんて描写されております。

クララの視界は方眼紙のようにいくつかのボックスに区切られているのか、この「ボックス」で見た描写は読者もクララの視界を「共有」しているようでした。


カバーのそでにある「愛とは、知性とは、家族とは?」について、「私の考える愛とは、知性とは、家族とは〇〇だー!」と考えを伝えるような、あるいは確信をつくような明記はありませんが、読み手がそれぞれ何かを受け取れるような物語でした。

クララのお母さんが病弱のジョジーが死んでしまったあと、クララに「ジョジーになってもらう」という計画の話を読んだとき、私のなかで「家族とは?」を深く掘り下げて考えるきっかけとなりました。

クララは観察し、学び、考察する、いわば「心」を学ぶ個性を持ったAIです。嗅覚があり、運動能力も長けている最新式の「B3型」よりも、旧式のAF(Artificial Friendの略という説があります)ですが、人間を学ぶ、といった点では「B3型」よりも、同じ型のAFよりも、どのAFよりも優れています。

故に、どのSF映画でもロボットが持つには難しい、私たち人間だからこそ所持し、表現できる「心」を学習・習得し、人間と同じように、クララは表現できる「心をもったAI」となりえます。

クララにとってジョジーと一緒に過ごす事は、人工親友である自分の存在意義であり、大事な務めでもあります。しかし、やがてジョジーは容態が悪化。娘の命が長くないことを察する母親は、クララに「ジョジーになること」を求め、クララも了承(マジか!)します。


もちろん、クララはジョジーが元気になるよう、最善の努力をするのですが。(クララは敬愛するお日さまにお願いし、ジョジーを助けてくださいと懇願します)

この、母親のちょっと歪んだ計画を知った時、「家族とは」を考えました。

心は複雑であり、単純であり、読めず、書けず、触れられず、浅くもあり、深くもあり、そこにあるのか、無いのか、とにかくわからないフワフワしたもの。かと思いきや、ずんっと重かったり、例えようのない痛みがあったり、どろどろと渦巻いていたり、晴れ晴れと透き通っていたり――。

私たちは心を持ちながら、それに気付いていないか、それがなんなのかわかっていない。すべてを知り尽くせない。そういうものと私は考えています。


でも、もしこれを完璧に理解し、コピーし、表現できるロボットが現れたら?


例えばある日、自分と瓜二つのロボットが家に来ました。そのロボットは人工の親友です。紛うことなき、もう一人の自分です。

自分のことは自分がよくわかっており、自分の一番の味方は自分です。人間は病気や事故などで死にます。でも、「絶対に壊れないロボット」だったら、死にません。もし自分が死んで、もう一人の、ロボットの自分が残ったとしたら。

ロボットの自分は人間の自分に「なりかわる」ことが、可能だと思います。

自分と同じ感覚で物事を見聞きし、考え、話し、行動する。もはやそれは人間の自分とどこが違うのか、わからないほどです。もしかしたら、「違いなんてない」のだとしたら。そうであれば、人間の自分が死んでも、ロボットの自分が「生きている」ではありませんか。(わお)

もちろん家族も自分と同じ「ロボットの自分」が生きているので、ロボットの自分が来る前の日常と比べても、そこに「自分」はいるのですから、人間の自分が死ぬ前と変わらないでしょう。ロボットは、もともとの「自分」として、家族になっているのです。

では、このとき、家族はロボットの自分を、これまでの人間の自分として受け入れるのでしょうか。

事実としては、そこにいるのは自分の心をもったロボットで、自分と同じ考え、性格のロボットなのですから、肉体が機械にとってかわったというだけで、あとは何も変わりません。


ジョジーの母親は、きっとこれを望んだのでしょう。

娘をもう失いたくない、という寂しさ、絶望を回避するため。
ジョジーとずっと一緒にいたいという願望のため。
たぶん、きっと、そうです。

でも、ここでなにか引っかかります。

その「なにか」がわからないのでうまく言えませんが。

ほんとうにそれは「自分」であり、「ジョジー」なのでしょうか?家族は、それでよいのでしょうか?なりかわったロボットは、クララは、それで満足でしょうか?

心を持つロボットです。ロボットも何か、違和感があるのではないでしょうか。この違和感こそが、わたしが「家族」に感じ、「家族」をつないでいるものではないかと、考えました。

結論もでなければ、進展もしていません。
しかし、やはり人間のなにかがある、それに気付いてるが見えていない。

私たちはそれを一番そばに置きながら、触れていながら、理解していないと考えさせられるお話であったと思います。

そして、クララの


特別な何かはあります。ただ、それはジョジーのなかではなく、ジョジーを愛する人々の中にありました。だからカパルディさんの思うようにはならず、わたしの成功もなかっただろうと思います。私は決定を誤らずに幸いでした。
クララとお日さま


このセリフで、私はクララに気付かされたと感じました。

「特別な何か」を自分の中で、一生懸命探していたけれど、私もカパルディさんも、探す場所を間違えていた。

私の中だけでなく、私の周りの人たちの中にも、「それはある」のだとクララは教えてくれました。

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