京都に住むということ
最近よく京都へ行くようになった。何をしに行くかと言われれば、一言で言えば「観光」の部類に入るのだろうが、特に有名な寺社仏閣をたくさん巡る訳でもなく、昔住んでいた住宅地や通っていた大学の周りをうろうろしたり、大好きな下鴨神社や鴨川デルタでのんびりと過ごしたりしている。ただしどれだけの頻度で京都に行こうとも、住むことと泊まることの間には大きな隔たりがあると最近感じるようになった。いくら懐かしい場所に足を運ぼうとも、所詮はよそ者が訪ねてきたに過ぎず、そこに住んでいた時に感じた、街全体の息づかい、観光地とは切り離された生々しいほどの生活感は一切感じなくなってしまった。それはそれでいいことなのかもしれないが、何か大事なものを失った気がして、少し切なくなる。
私は大学時代の6年間を、北白川という閑静な住宅地のボロアパートの一室で過ごした。周りに自然も多く、相場より一万円近く安いという破格の物件であったため、大学入学当初はとても気にいっていたが、それは親元を離れて初めて一人暮らしをするという期待感も加味された上での「気にいっていた」のだと思う。
そのボロアパートは1階が3部屋、2階が3部屋の計6部屋から構成されていた。私が部屋を決める際、1階の部屋と2階の角部屋の2つを見たのだが、1階は日当たりも悪く窓も少ないため、少々高くはなるが(と言っても相場よりは相当安いのだが)2階の角部屋に決めた。住人とは廊下ですれ違った際に軽く挨拶をするくらいであまりしゃべったことはなかったが、概ね大学生が多数を占め、一人だけ社会人の方が住んでいるようだった。
まず住んでみて感じたことは、アパートの裏に住んでいる大家さんの犬の存在だった。内見に来た際は鳴き声がほとんど聞こえなかったのだが、いざ住んでみると、その犬が昼夜を問わず吠えまくるのである。窓を閉めても聞こえてくるあの声を聞きながら、なぜ内見の際にこの犬が吠えなかったのかが不思議で仕方なかった。あの時思いっきり吠えてくれていれば、私もこんなハズレ物件に住むことはなかったであろうに。ともすれば、大家さんがそのことを見越して、私の内見の時間だけ犬を散歩に連れ出していたのではないかと推察している。もちろん大家さんにそのことを問いただしたことはないので、真偽の程は定かではないが、あの大家さんならやりかねない。しかもクレームを入れようとも、相手は「大家さん」の「犬」である。言ったところでいきなりアパートを追い出されても困るし、犬に「吠えるな」というのも少々酷である。
そういう訳で、この最大の短所には目を瞑って暮らすことにしたが、人間の適応力というものは凄まじく、1ヶ月もすれば犬の鳴き声が全く気にならなくなった。真夜中にあの犬が全力で吠えたとしてもはっと目を覚ますこともなくなり、気持ちのいい朝を迎えることができる。犬の声以外の生活音は普通に聞こえるため、別に耳が悪くなったという訳ではなく、おそらくその犬の鳴き声の周波数だけシャットダウンするよう、私の耳が適応したという言い方が正しいのかもしれない。
もう一つの欠点として、アパートの至る所に隙間があるということが挙げられる。昔の建物のため隙間風が多く、真冬に帰ってくると部屋の中が冷蔵庫並に冷えていることもしばしばであった。また隣や下の階の部屋との間にも隙間があるらしく、隣の部屋で恋人と睦言を交わす住人の声はほとんど丸聞こえだった。下の階の住人は連日のように自宅で飲み会を繰り広げ、有象無象の笑い声や叫び声がそのまま私の部屋へ響いてきた。
みなさんも京都に住む際にはこのようなボロアパートにはくれぐれも注意してほしい。さもなければ私同様
「他の住人も好き勝手暮らしているから、自分も好きに暮らしていい。あまつさえ大家さんの犬もうるさいのだから、こちらがどれだけはしゃいだところで大家さんから文句を言われる筋合いはこれっぽっちもない。」
という発想になり、気が付けば友人たちの溜まり場になり、学生の身分でありながら学問そっちのけで学生生活をめいっぱい謳歌する羽目になってしまうからである。
さらに京都の四季に合わせた桜や紅葉、雪化粧の風景や、葵祭や祇園祭、五山送り火といった伝統的イベントにかこつけて宴の場が設定され、さして耐性がある訳でもないエチルアルコールをちびちび飲みながら、学生時代の些細な不安や色恋沙汰に多くの時間を費やしてしまうことになってしまう。
そして一番厄介なのは、京都を離れてから時が経っても「あの頃が懐かしい」や「あの頃に戻りたい」などとことあるごとに吹聴し、京都以外の生活には一向に馴染めなくなってしまう。
そうならないためにも、決して京都に住んではいけません。特に何を血迷ったかボロアパートにだけは絶対に住んではいけません。決して、断じて、ゆめゆめ・・・