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宵山メモリーズ

 7月に入り梅雨明けが待ち遠しくなる頃、その音色は町中からどこからともなく聞こえてくる。擬音語としては「コンチキチン」らしいのだが、そのように聞こえた試しはない。雑踏の中で聞く祇園囃子は、京都にこれから始まる長く蒸し暑い夏の到来を告げている。

 学生時代、祇園祭と言えば宵山が最高の見せ場で、後の山鉾巡行は観光客がわんさか集まってただ眺めて楽しむもの、というよく分からない偏見を持っていた。宵山はいわば巨大な夏祭りの感覚であり、人混みの熱気に包まれながらその雰囲気を楽しむものだと思っていた。

 京都に来て初めての宵山はとても楽しみにしていた。運よく意中の相手を誘うことに成功し、友人から誘われた時は
「ちょっと別の友人と行く約束をしてしまってね」
と言ってデートだということが簡単に露呈してしまった。他の友人には秘密にしておくよう釘を刺し、私はそのまま祇園囃子の鳴り響く雑踏の中へ消えていった。

 それから数年間はあの宵山の群衆の中に足を踏み入れることはなかった。その理由はご想像にお任せしたいが、
「なんでこんなにも人がいるのか」
とぶつぶつ文句を言いながら、自分も群衆を構成している一人であることなど露知らず、それなりに楽しんでいたと記憶している。別に宵山が悪い訳ではなく、単に宵山の魔法から解けた際に、自分自身の魅力のなさを見透かされただけである。

 京都を去る前の年、もう今後見ることもないからと昼過ぎから一人で宵山観光に出かけた。平日の昼間は人もまばらで、森見先生の『宵山万華鏡』を片手に蟷螂山や大小様々な山鉾を見て回った。あの四条烏丸の歩行者天国だけが宵山ではないと実感すると共に、大変満喫することができた。山鉾はそれぞれ趣向が異なっており、その土地の町衆が長い間守り続けてきたと思うと、もやもやしていた気持ちが吹き飛び、心が洗われる気がした。

 結局今年も宵山を見に行ったので、前回が最後ではなかったことになる。京都に住んでいなくとも、見に行こうという強い気概さえあればどこからでも来ることができる。宵山には人々を惹きつける特別な力があるのである。

来年こそは宵山様に出会えるだろうか