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エッセイ好きのためのエッセイ

 最近寝る前にエッセイをよく読んでいる。元々は小説を読んでいたが、いざ読み進めて物語に入り込んでしまうと、続きが気になって一つの章を読み切らないと気が済まなくなってしまう。そのため就寝時間がどんどん遅くなり、昼間は寝不足のためうたた寝をし、昼に寝た分だけ夜中は元気になってずんずん読み進めるという、悪循環のお手本とも言うべき状態に陥ってしまった。

 このままではいけないと思い、一度は就寝前の小説を諦めたが、床に入るとどうもしっくりこない。活字を脳内に取り込むことが一種の就寝前の日課となっており、床の中で目を閉じても何かそわそわするのである。
 人間の日課というのは恐ろしいもので、日課をこなしていないという事実が脳内を駆け巡り、今からでも起きてこなすべきかこなさないべきかという選択に迫られ、結果的に寝付きが格段に悪くなる。これでは就寝サイクルを改善させたいという目的を達成することもできず、本末転倒である。

 そこで登場した救世主がエッセイであった。一つのエッセイを読むことで小説一章分を読んだ満足感に包まれ、安心して就寝することができたのである。またエッセイ集はどの章からでも読み進めることができ、短いものでは1分足らずで、長くても30分もあれば読み切ることができる。
 目次のタイトルと、その章のページ数からその日にあったエッセイを自在に選択し、明日はどんな話が読めるのだろうと少しばかりわくわくしながら床に入ることができる。こんな幸せなことはないのである。

 まず手始めに、森見登美彦氏のエッセイ集から読み始めた。一番はじめに登場するエッセイ「わけいっても本の山」(『太陽と乙女』に収録)を読んで、わずか数ページでここまで威力のある文章を書けることに私は驚愕した。
 下鴨納涼古本まつりを題材にして、登美彦氏の古本市に対する考え方や麗しの乙女との思い出など、これでもかというくらい森見節が炸裂していた。どこまでが事実でどこまでが虚構なのかは定かではないが、多少なりとも文中の森見青年に同情してしまうお話であった。
 しかもこのエッセイが書かれたのは、古本市小説(そんなジャンルはない)として不動の地位を確立した『夜は短し歩けよ乙女』が書かれる前に世に出ている。きっと古本市と登美彦氏は大変相性がいいのかもしれない。

 次に注目したのは万城目学氏だった。登美彦氏のエッセイや対談集の中でも学氏の話がたびたび登場する。共に京都を舞台とした小説を数多く書かれており、既に学氏の小説もいくつか読んだことがあったため、これは面白いに違いないと確信し何冊か買い漁った。
 学氏のエッセイ集はいくつか発売されているが、その中でもとりわけ心に残ったのは、「やけどのあと(2011 東京電力株主総会リポート)」(『ザ・万字固め』に収録)である。
 学氏のエッセイの特徴として、普段滅多に行くことのできない旅先での経験や、自身の身に降りかかった災難を一ミリたりとも無駄にせず文章に起こす節がある。本エッセイも、東日本大震災によって自身が所持していた東京電力株が紙切れと化してく様子と、その後行われた株主総会にて当時の実情や学氏が感じたことなどが克明に記されている。
 社会批判でも社会風刺でもなく、誰かに文句を言う訳でもないが、でもそこから何かを感じ取ってほしいという信念も伺える、非常に考えさせられるエッセイであった。

 そして最近は向田邦子氏のエッセイを読んでいる。学氏のエッセイの中で邦子氏のエッセイが取り上げられており、少しばかり興味を持ったのが事の始まりであった。向田邦子という名前は昔から知っており、過去にどこかで読んだ記憶もあったので、そのお話を探す意味でも読み始めた。
 前述二人のエッセイとは趣が異なり、戦時中に自身が体験したことや、父親の威厳とその中に見え隠れする家族愛など、心温まるお話が特に印象に残った。その中で見つけた「字のない葉書」(『向田邦子 ベスト・エッセイ』に収録)の一文目「死んだ父は筆まめな人であった。」を読んだ時、過去に読んだのはこの話に違いないと確信した。最後の結論は何となく覚えていたのだが、父が声を上げて泣く場面は何度読んでも目頭が熱くなってしまう。
 昔読んだ際に覚えた衝撃が鮮明に蘇り、改めて邦子氏の偉大さを思い知ったのであった。

 こうしてエッセイの海を泳いでいるうちに、また新たなお話に出会えるかもしれない。上述三名の未読エッセイを読むもよし、一度読んだエッセイを読み返すもよし、はたまた全く別の作家のエッセイを読むもよし。

 寝る前に一日一編と決めていたエッセイも、最近では昼間の隙間時間でも読むようになった。また夜も一編だけでは止まらず、三編、四編とずんずん読み進めるようになっている。

こうして今日も夜が更けていく。