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妄想的京都旅行 #3

 大文字山を下山し、今出川通を西に向かってずんずんと進んで行くと、カフェコレクション、進々堂など懐かしい名前の喫茶店が軒を連ねる。

 カフェコレクションは友人たちとよく通っていた覚えがある。店名が少し長いのでいつも「カフェコレ」と略し、オムライスかトリ皮のバターライスを注文していた。フードメニューはどれもボリューム満点かつリーズナブルで、いつも腹ぺこな私たちの胃袋を満たしてくれた。店名の「コレクション」とは一体何のコレクションのことを指していたのか、真相は未だに分かっていない。

 進々堂はそれほど通っていた覚えはないが、それでも店の前を通る度に「いつか店内でゆっくりと珈琲を飲みながら読書に耽りたい」と考えていたことはあった。ただし当時その願望の半分は「読書をしている自分が店の外からどう映っているか」を気にすることに注がれており、それならば家で誰にも邪魔されず、世間体を気にすることもなく読書する方がよっぽど気が楽であったため、結局進々堂で本を読むことは一度もなかった。

 それらの喫茶店を通り過ぎ、百万遍を越えてまた少し歩くと、目の前に大きな川が見えてくる。賀茂大橋から北側を眺めると、高野川と賀茂川がここで1つに合流し、「鴨川」が誕生する。そしてその合流地点の三角地帯のことを人々は親しみを込めて「鴨川デルタ」と呼ぶ。通常「デルタ」とは三角州の別名であり、河川が河口付近で分流した際に使われる名称であるため正確には「デルタ」とは言わないが、形が綺麗な三角形であるため、「デルタ」と表現しても何らおかしくはないし何の異論もない。

 それともう1つ、賀茂川と鴨川は発音が同じであるため、話し言葉の中で使い分けるのは至難の業であるが、「かもがわ」と発音された単語は十中八九「鴨川」の意味で使われる。では賀茂川を表現したい場合はどうなるかというと、大抵の場合「合流する前のかもがわ」「かもがわではないかもがわ」と接頭語をつけることが多い。前者の「合流する前の」はとても分かりやすいが、後者の「かもがわではない」は知らない人からすれば意味不明である。それでもここに住んでいる人の多くには後者でも意味が伝わることを加味すると、京都の人は鴨川をこよなく愛していることがよく分かる。

 そんな堅苦しい話はさておき、デルタに寝転んで空を見上げると、わたあめみたいな雲がふわふわと浮かんでいる。日頃のあれこれを忘れ、ただ流れていく雲を眺めながら、このままずっとここで寝転んで暮らすのも悪くはないとさえ感じてしまう。周りでは水遊びに興じる子どもたち、読書に耽る老人、シートを広げて楽しそうに酒を交わす大学生など様々な人々がそれぞれ思い思いの時間を過ごしている。出町柳の駅前は足早に歩く人の姿もあったのに、デルタのこの場所において急いでいる人はほとんどおらず、時間の進み方がとても緩やかに感じる。そのまま目を閉じると周りの声がだんだん遠のいて行き、深い眠りに誘われる。

 どれくらい眠っていただろうか、不意に目を覚ますと辺りは暗くなっており、デルタにいた人たちは誰もいなくなっている。川の流れる音だけが心地よい調子で聞こえ、賀茂大橋にも人影は見当たらない。不思議に思ってぐるりと一周見渡すと、大文字山に赤く輝く「大」の字が見て取れる。五山送り火が開催されるのは毎年8月16日であるから、これもまだ夢の続きなのだろうか。

 普段の送り火の日ならデルタは溢れんばかりの人々でごった返すのに、誰もいないデルタで見る「大」の字はゆっくり送り火を楽しみたい気持ちを通り越し、どこか不気味ささえ感じられる。そもそもあの「大」の明かりは本当に人間がたいまつを燃やしているのだろうか。如意ヶ嶽に住み付く天狗や妖怪たちが似非送り火をでっち上げ、私をからかっているのではなかろうか。そう思うと一刻も早くここから逃げたい気持ちに襲われるが、どこか近場へ逃げたところであの「大」の字が見える限り、私はこの夜からは抜け出せないだろう。そして送り火は「大」の字だけではない。「妙法」「舟形」「左大文字」「鳥居形」にもたいまつが灯っていることを考えると、洛中にほぼ逃げ場はないのである。

 デルタを離れ、出町柳の駅へ歩いてみるが、道路にも人影は見えず、車すら1台も走っていない。駅に明かりはついているのに人の姿も駅員さんの姿もない。近くのコンビニにはきちんと商品が並べられているのに、店員さんの姿は見えない。まるで私以外の全員が神隠しにあったように、街全体が静まりかえっている。何か人々が天狗様の逆鱗に触れるようなことをしたのだろうか。それとも何かの拍子に魑魅魍魎が住み付く裏の京都へと私だけがやって来てしまったのだろうか。

 いずれにせよ、この街から脱出しない限り解決策はなさそうだと悟り、私は再び鴨川に出て河川敷をずんずんと歩いて南下していく。背後から何かがつけて来るような気配を感じたが、後ろを振り返るともう二度と現実世界には戻れないような気がして、前だけを見て足早に歩みを進める。

 やっとのことで七条大橋まで辿り着き、誰もいない橋を渡って京都駅の方へ向かっていく。ここまでの道中人っ子一人どころか猫一匹にすら出くわさない。新幹線が動いているかどうかは分からないが、一途の望みに賭けるだけの価値はあるとは思う。万が一京都駅にも人の姿がなければ、さらに徒歩で南下して京都市内を抜け出せば大丈夫なのだろうか。

 ますます不安になりながら烏丸七条の交差点を左に曲がると、目の前に不気味な紫色に光る京都タワーが現れる。タワーのライトアップ色には普段様々な色が使われているが、その中でも今日の紫色はひときわ気味が悪く感じてしまう。

 足早にタワーの横を通り抜け、駅へ向かうといつも通り観光客で混雑しており、思わず安堵のため息がもれる。駅員もいればコンビニの店員もいるし、さっきまでの無人の京都は何だったのだろうか。そう思って後ろを振り返ると、先ほどは不気味な紫色だったタワーが普段の白色でライトアップされている。そしてその向こうには車やバスが普段通り走っている。

 狐につままれたような気分で少しの間その場に呆然と立ち尽くし、それから新幹線の改札口へ向けて歩き出す。何かこの街の掟に反するようなことを私がしてしまい、その罰として天狗たちからちょっかいを出されたのであろうか。それともずっと夢の中の出来事だったのだろうか。真相は闇の中であるが、別にこの街で奇妙な出来事が起きようとも何ら不思議ではない。

 そしておそらく私はまだ京都という呪縛から解き放たれていない


あとがき
人影のない夜の京都にはただならぬ恐怖感を感じる時があります。誰もいない神社やお寺、無人の鴨川、人通りのない小路など、何かが後ろにいるような、でも振り返っても何もいません。天狗や妖怪、落武者の霊かもしれませんし、そもそも実態のない「闇」かもしれません。そんな昼間の楽しげな雰囲気とはまた違った別の顔も持ち合わせている街だからこそ、余計に心惹かれるのでしょうか。