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小学校のカリキュラムについて考えてみた

娘は現在小学校の中学年だ。入学して以来落ち着くことのないうっかり具合に翻弄されつつも、ギリギリそれなりに小学校生活を送っている。しかし気を抜こうものなら忘れ物、提出し忘れ、テストで赤点…ドカドカっと災難が降り掛かってくる。「最近、ようやく楽になってきなぁ」なんて思おうものならそれは単なる惨事フラグに過ぎない。

・・・しかしある日疑問に思ったのだ。小学校生活は果たして親がこんなに頑張らないと普通に送れないものなのか?目を話した途端ガラガラと崩れていくのが学校生活の正解なのか?親が学習内容を把握していないと教えられないものなのか?何かがおかしいのではないか。娘が特別うっかりなのか?それとも小学校の教育自体何かがおかしいのか?と次々疑問が沸いてくる。

親のサポートを前提としている小学校の教育プログラム

以前もチラっと紹介したが、私自身は欧米で育っているので日本の小学校を経験していない。だからこそなぜこんなに大変なのか!?とイメージのズレを払拭できないでいる。自分の小学校時代は、当時英語を全く喋れない親のサポートがあるはずなく、学習内容的なサポートはゼロであった。しかしそれでも落ちこぼれる事なく着実に学力はついていったし、無事良い感じに卒業もできた。一方、共働きにも専業主婦にも優しくない「あとは家でやってね」という学習内容の多すぎる日本の小学校は、親の多大な貢献を前提にして成り立っているのではないかと感じてしまうのだ。

さらにそれを特に疑問に思うことなく、むしろ子の学業サポートするのは親の義務である、といった風潮がなかろうか?しかしここ数年で共働きの家庭率は過半数を迎えるか越しているはずである。すべての家事をストップして子供の学業と持ち物チェックにじっくり向き合う時間が、昨今の家庭のどこにあろうか。子どもが夕方に帰宅してから寝るまでの時間は案外短いし、習い事を入れようものなら学校の課題に避ける時間はせいぜい1,2時間である。下に兄弟がいようもんなら更に時間は半減する。

毎日宿題を持ち帰り、毎日違う時間割に合わせて持ち物を変更し、長期休みの際には親がフォローしないと完成しないようなタスクを課されるのが小1からの風物詩である。前年まで幼稚園に行っていたような鼻たれキッズにさえ、それを求めるのだ。明らかに子どもの発達具合と学校のカリキュラムが噛み合っていない。

時間割と持ち物の管理を幼稚園あがりに求めるのは不自然

去年まで幼稚園や保育園に通っていた子どもに、毎日の複雑な時間割管理を求めるのには無理がある。たかが6歳、7歳の子どもが、学校から帰宅するなり親に手紙を渡し、宿題をこなし、提出物を忘れないように鞄に入れ、次の日の時間割をチェックし、持ち物をチェックし、過不足なく物を持ち運びするなんて無理がある。できないのが自然だと思うのだ。例外となるスーパーチャイルドはいるとは思うが、基本的には無理だと思うのだ。

そこで、発達レベル以上の事を学校から求められている時には親がサポートをしなければならない。持ち物管理からして難易度が高すぎるので、親がフォローしなければ日本の小学校生活はそもそも成り立たない。しかしみんな保育園/幼稚園生活時代から、多大なサポートをする事に慣れているのか、はたまた自分の親は確かにそうしていたな・・・と記憶をたどるのか、苦に感じつつも日々のサポートを頑張っている現状だと思うのだ。

・・・が、果たして本当にここまでする必要があるのだろうか、と疑問に思わずにはいられないのだ。子供の発達に合わせてカリキュラム内容が変わるだけで親の負担(そしてそれを管理する担任の負担も)ぐっと減るはずなのに。

中には細やかなルール作りをしてうまくルーティン化している家庭もいるが、、そのルーティンを教えるところから学校でやってきてほしいと思ってしまう自分がいる。もしそれでも忘れ物をする子が多いのだとしたら、それは個人の問題ではなく仕組みの問題のはずである。

例えばだが、アメリカの低学年では基本的には毎日同じ科目を繰り返している。(その分、1つ1つの授業の時間は短い。)よって、翌日の時間割に合わせてかばんの中身を入れ替える必要が生じないし、低学年のうちは基本的に宿題は出ない。プリントなども授業内で終わる。宿題が出る時はあくまで「それでも授業中に終わらなかったもの」や「ボーナスとしてやりたい人だけやるもの」などであった。宿題が出ないので、教材も持ち帰る必要がない。以上のような状態なので、物の管理と宿題、提出忘れなどに親がピリピリイライラする日々とは全く無縁である。(もちろん学年が上がるにつれ、徐々に宿題や持ち物の管理は発生する)

昔と違い共働きが過半数になりつつある昨今、細やかなサポートを前提とした小学校のカリキュラムはもはや成り立たないのでは、と思うのだ。子どもが本当に自分の能力だけで解決できるような「当たり前レベル」から学校生活をスタートしてほしいものだ。高学年になってから物の管理を始めるでも十分であると思うし、小学校高学年ともなればようやく物の管理もできるのでないか。

習っている以上の事を求めてくる学校の課題

日本の学習カリキュラムにも疑問がある。文科省的には、ひらがなの習得は小学校に入ってからでよい・・・はずなのだが、

ひらがな五十音順をすべて習わないうちに「作文」の宿題が出た時にはカルチャーショックを受けた。「ひらがな、本当はもう全部書けるよね?」と暗黙の了解で圧をかけてくる学校には心底驚いた。1.文字の習得→2.単語の習得→3.文節の習得→4.文章の習得→5.段落の習得→6.構成の習得・・・というステップの、1から6をぶっ飛ばして課してきたのだ。

おいおいおい。

夏休みの宿題も同様である。「休み」という言葉とは裏腹に、「1日たりとも勉強の事を忘れるなよ」と言わんばかりの学習量を子どもに課してくる。当然、6歳やそこらの子どもに管理できる量ではなく、親が介入する。自由研究も1年生に合わせた内容であれば良いのに、いきなり「さあ、自由に研究せよ」である。研究の仕方もまとめかたも(漢字の読み方も)教わらないまま、足りない知識はすべて親が補足するだろう、の前提である。ふざけないでいただきたい。

そして夏休み明け、明らかに小学生クオリティではない作品が多々集まる。そして学校はそれを嗜めるどころか、あたかも素晴らしいカリキュラムによってこんな素敵な作品ができるようになりましたといった誇らしげな空気で堂々展示するのである。

いやいやいや。

つまり日本で子どもが「優秀な生徒」を目指すには、親がめちゃくちゃ大変な想いをする事がセットとなっているのだ。親が介入すればするほど優秀な作品が生まれ、子が自分で試行錯誤して作った子どもレベルの作品は特に称賛を浴びずに終わる。果たしてこれで自分で考える力が養われるのだろうか。。

システムを埋めるのは個々の「頑張り」

教育システムが穴だらけなので、それを機能させるため親も子も鍛えられて「言われた事を遮二無二こなす」といった能力は高く伸びる。・・・が、おかげで個々の能力に依存しすぎて、何年経ってもシステムがボロボロのままのように感じている。システムの不完全な部分は個々の「努力・根性・長時間労働」で補われるので、そこで生きられない人間に対し異常に厳しいし、未だに履歴書や願書で一文字も間違えないのが美徳といった文化が廃れないのだろう。はっきり言ってクレイジーである。

誰が使っても機能するシステムを作る方が全員楽に幸せになれるのに、なぜかボロボロのシステムを使いこなせない自分を恥じてしまう謎の風習がある。

そういった「システムは自分が頑張って機能させる」事が当たり前となっていると、言われた事に対し律儀に対応するのが前提となり、根本を問い正す姿勢が欠如し、言われた事しかできない体質になり、はたまたシステムを作る側にまわろうものならシステムへの指摘を極端に嫌悪する、そんな人間に育たないのだろうか。こういった状態で昨今必要とされる独創性・自主性・リーダーシップは養われるのだろうか。

カエルの子はカエル現象

こういったカリキュラムが横行している状況で何が起きるかというと、親の得手不得手がそのまま子どもに受け継がれる、という現象である。

基本的に自力では解決できないタスクが課されるので、親のサポートなしでは学習が成り立たない。フォローできるのであれば良いのだが、万が一親がにもわからない(もしくはサポートする時間がない)場合、学習が成り立たずにどんどん遅れていくという現象が発生する日本の小学校の知識を全くもたない外国人の親が、自分の子どもを日本の小学校にいれると、一体どうなってしまうのだろう。

私立小だと更に親のサポートが必要

学校にもよるだろうが、残念ながら私立もガッツリ親のサポートありきでカリキュラムが組まれているように見受けられる。・・・いや、むしろ公立以上に親のサポートが入りがちだ。

先ほど紹介した作文の課題だが、保護者会の際にはその作文が教室に張り出されていた。きっとみんな、ミミズの這ったような文字で、つたない文章が並んでいるんだろうなぁ、と思っていたのだが・・・

美しい字による美しい文章がズラリと並んでいた。

明らかに小1が自力で書いたとは思えないような文章がたくさん並んでいた。当然、中には親が介入する家庭もあるだろうと予想はしていたが、それが大多数であった状況に驚いた。その後の面談の際、当時の担任に親が介入すべきかどうかを聞いてみた所「家庭それぞれですね」といった超絶ふわっとした答えが返ってきた。

せっかく中学受験用の成績を気にする必要のない学校に通っているのに、この介入具合である。しかも学校側もそれを容認している状態である。子ども自身の力で習学していくというプログラムがたとえ私立でも、思った以上に養われていないようだ。

以前のnoteでも述べたが、基本的に私立小学校は親のサポートが手厚い。カリキュラムが明らかに年齢以上の事を求めていたとしても、家庭がそこをフォローできてしまう率が高いのだろう。

そして更に厄介なのが、私立小学校の場合、おそらく公立よりも課題が多い。夏休みには膨大な量の宿題が課され、さらに「任意」という名のチャレンジ課題もいくつか紹介される。それらにチャレンジさせるのもまた、親の役目・・・らしい。(もちろん授業では触れてさえいない)

小1の子どもの平均的な処理能力が5だとしたら、ハナから10を課してくるのが学校であるように感じた。当然、残りの5は親のサポートありきとなる。そして私立の場合、それをこなしてくる家庭の割合が高いので、子どもに自力でやらせるというスタンスを貫いた場合、悪目立ちしやすい。こんなにサポートするのが前提となると、果たして健全な自立心が育まれるのだろうか。

カリキュラムを活かすも殺すも家庭次第

課題だけでなく、学校でのカリキュラムの咀嚼具合も家庭に委ねられている。娘のノートを見ると、「これを・・・この歳の子どもに?」といった内容を授業で取り扱う事がある。それを家庭に持ち帰ってよく話し合い、咀嚼してくるかどうかも、これまた家庭任せなのである

正直言って、授業で咀嚼してきてほしい。

といった親の悲鳴は届かず、構わずガンガン課されてくる。本格的な内容を紹介してくれるのは助かる。…が、年齢に対してオーバースペックな内容を紹介される事もあり、その場合本人のキャパシティを超えた分は親がフォローする事によってようやく子供の力になる。

学校にもよるのだろうが、学校が与える内容を吸収するには、子どもが相当勘の良い子であるか、もしくは親がガッチリとサポートするかの2択である。疑問だらけの小学校受験内容だったが、あの試験は負荷の高い授業を吸収できそうな子どもであるか、そしてその負荷に耐えうる親を選抜していたのではないか、と今では思うのだ。そういう事であれば、試験内容や願書の内容にも今ならうなずける。

本当に先取り学習は悪なのか

話は変わるが、世間ではよく「先取り学習は不要だ」「悪だ」「授業がつまらなく感じる」といった風潮がある。何を隠そう、私もこの言葉を信じ込み「そうそう、ひらがなは小学校に入ってからでOK!」・・・と考えていたのだが、逆に先取り教育をしなかったからと言って今のところ特にメリットは感じていない。

また、先取り教育を避けようという意見が多いにも関わらず、黙々と先取り学習をひた走る家庭も少なくない。それはなぜか。

それは、ひとえに日本の教育システムが先取り学習さえしていれば楽勝であるから、そして「悪だ」と言われつつも点数を取ると評価されやすいという点数偏重主義であるからではないかと思うのだ。点数だけを見ている風習や、紙の上で完結してしまう学習内容である限り、いくら「先取り学習をしないで」と言った所で無理がある。だってそれで快適な学校生活を送れるんだもの。

先取り教育を悪と思っていたが、最近ふと自分自身が幼い頃先取り教育をしながら育っていた事を思い出した。先程も述べたが、私はアメリカで義務教育を終えている。私が通っていた小学校では、本人の習学状況に合わせて科目ごとに学年を飛び越える事ができた。自分も2学年上の数学と理科を学習し続けていたのだが、デメリットよりもメリットの方が遥かに大きかった。それが自分の自信にもつながったし、今でも数学と理科は好きでい続けている。

ただし、何度か学年通りの授業を受ける機会があり、その時は確かにとんでもなく退屈だったのは覚えている。アメリカの場合は幸い、それならばと子どもに合わせて先の学習を推奨してくれるが、日本の場合は退屈だろうとなんだろうと、皆同じペースで学習しなければならない。そういった「退屈」を生み出さないために、先取り学習をしないでと警告するのだろう。

どうでしょうね、これ。先に行きたい人は行かせれば良いんじゃないですかね?訳もわからず先に行かされてるのであれば論外ですが、本人の意志で自信を持って進んでいるのであれば、メリットの方が大きいような気がしている。

学校にとっては用意している授業をつまらなそうに受けられる、というデメリットが生じるかもしれないが、基本的に課題がオーバースペックである事と、本人の自信につながる事を鑑みると、先取り教育は日本教育においてのチート技であり、だからこそ先取り教育を続ける家庭がいると思うのだ。

結局、サポートすべきなのか、しないべきなのか

と、以上色々と小学校について思っている疑問を並べてみたが、そもそも「親がサポートするのが当たり前」という考えの家庭にとっては、「何甘えた事言ってんの?」とも思える疑問に思えよう。

しかし、我が家のようにあくまで自分の事は自分でやってほしい家庭にとっては悩ましい問題だ。本当に子どもだけの力に任せようとすると、失敗するのが前提となる。それでも失敗から学ぶ事に賭けて、我慢強く見守る事もできるが、自立心が育ったとしても成績面では傷だらけになってしまう。逆に成績に傷がつかないよう、親がセーフティネットとして常に機能している場合、親に言われる事をトリガーとしがちで、子どもの自立心が育ちにくい。

上記の中間が正解なのだろう、と頭のどこかではわかっているが、子どもの様子をつぶさに観察して自立心を邪魔しない要領でさっとサポートする、なんて所業はそれこそ手を出す以上に観察力と根気のいる事であるし、教育のプロでもない親にそれを必然として求めるのはどうかと思う。そんな正論、聞いたところで、「じゃあそうしよう」と実行できるのなら誰も苦労しない。

今の所は学校側に制度を変えてもらわないと、子どもの自立心と成績は両立しないように思うが、そんな事を言っている間に子どもはスクスクと育ってしまう。ただ、悩んだところで子は勝手に育っていくし、あれこれ手を尽くした所で思った通りに育たないのが子どもである。その逞しさに頼りつつ、少しずつ少しずつ手を離していくのが今できる唯一のことである。


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