「火星のねずみ」5
この絵に囚われたのはいつだったろう。
絵の中に入るまで私はゴミ収集の作業員として働いていたのだった。ゴミを集めるのは嫌いではなかった。生ゴミや燃えるゴミの入った袋を作業車に喰わせると、ばりばりと良い音をたてて噛み砕き、ごうんごうんとなんでも飲み込んでくれたものだった。私は収集車に「あかね」という名前を密かにつけて、彼女が食事をする姿を毎日頼もしく見守っていたのだった。
ときに分別されないまま捨てられたガラスの破片や缶のふたで指先を怪我することもあった。しかしその赤くにじむ血と少しの痛みは私が生きていることを思い出させてくれる唯一のよすがでもあった。
私はいま小さな牢屋のなかにいる。あのネズミに声をかけられ火星に行くことを選択したとき、こうなる予感はしていた。小屋で牢屋の絵を見つけたときから、その絵に入りたくて仕方がなくなってしまったのだ。
細く可憐な鉄の格子の隙間から見る景色はどんなに美しいだろうか。じめじめと湿って見える床を裸足で踏むのは心地良いにちがいない。
そんなことを考えていたら、ネズミがこう言ったのだった。
「絵の中に入ろうと思ってはいけませんよ。それは地球の人達には許されていないのですから。昔、絵の中に入ろうとした者がおりました。月の光がもっとも明るくなる晩に羽虫の丘の湖で沐浴し天に祈りを捧げたのです。自分を絵の中の人物にしてほしい、と。しかしその願いは聞き入れられませんでした」
「その人はその後どうなったんだい?」
「蒸発してしまいました。濃い霧が晴れるようにある日突然消えてしまったのです。存在自体が無かったことになった、といった方が適切でしょうか」
存在が無かったことになる。なんと素晴らしいことだろうか。私が求めているのはまさにそのようなことであったのだから。
つづく
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