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なぜMBTIが好きなのか

初っ端から重めですが今回はMBTIそのものについての自分の考えを色々書いてみたいと思います。


そもそもMBTIは「疑似科学である」という話

 これに関しては、専門の方がそう言うなら私たち門外漢にどうこうできる話ではないと思っています。統計的妥当性および検定的妥当性から非難の対象になっているそうです。よって他の多くの性格診断同様に占いなどのオカルトジャンルと同等の扱いであると。

しかし、MBTIで合理主義型に分類される自分は、これを知って多少のショックはありつつも、今もこうしてMBTIを使って、日々自分や自分と相対化した他人を見つめているわけです。つまり私がMBTIにここまでハマった理由は合理性や学問性とは全く別の、もっと感情的な面にありそうでした。

精神医学や心理学の定める「正解」への不信感

 精神医学に限らず、現代の日本の文化、価値観に対する西洋の影響力が大きいことはご存知の通りですが、その西洋の及ぼす影響の最も大きなものの一つに「西洋中心主義」「オリエンタリズム」があると私は考えます。

私は、これが包含しているものは、単なる自文化中心主義という傲慢さや自惚れだけではないと考えます。そこにはキリスト教的な二項対立の意識、「正解」か「それ以外」かという意識がかなり強く含まれています。
そしてさも当然のように、この意識は西洋から始まった学問のほぼ全てに含まれているわけです。精神医学も例外ではありません。
むしろ、19世紀の有名な心理・精神医学分野、ピアジェやフロイトといった学者の偉業とは、「『正解』の発達の仕方の定義」と「『それ以外』の『分析・治療』」が主なものだったと言えるのではないかと私は思います。

西洋の二元論的価値観は今現在でも変わっていないのではないか

 ここで「しかし、西洋は現在ポリティカルコレクトやLGBTQ等々うるさいくらいに多様性を推進していて、もはやそんな『正解』を擁する二元論的な価値観なんてとうに残っていないのでは?」という意見もあると思います。
しかし私の主観では、西洋は「正解」か「それ以外か」という二項対立を脱したのではなく、「多様性を『正解』に据えて、それ以外を弾圧する」という新しい「正解」主義の形をとっているだけであり、二項対立という本質的な問題の改善には至っていないのではないかと思います。

そして、この二項対立的な価値観が、精神医学や心理学、果てには日本の人物評価における価値観にも依然として残っているように私は感じます。ADHDやASD、認知の歪み、発達障害、ギフテッド等「それ以外」を肯定・支援する言葉はこの数年で世の中に溢れ返りましたが、あくまでそれは「『正解』の人格の存在を前提とした」価値観です。「自分たち『正解』の人と違う存在であることを強く意識」し、「合わせてあげる」というような話が私の目にする限り、主題となっています。

今私たちがいる多様性の世界とは、
私には私の『正解』があり、あなたにはあなたの『正解』がある。
 その二つの異なる『正解』の共存を模索する。」
という形態ではなく、
「あなたという『それ以外』も『正解』のうちに入れることにした。
 よって『正解』になったあなたを非難する人は弾圧するね。」

ということらしいのです。
社会正義はいまだに、「正解」と「それ以外」との二項対立に対して、「正解」に含む内容を多少拡大しただけ、という段階にとどまっているのです。

MBTIの可能性

「16種類に分裂した正解」という宗教

 MBTIは人間の性格を16種類に分けられると豪語する破天荒な理論です。
根拠に乏しくて、人を型にはめて見る陰湿な似非科学で、私の通っている大学では心理を専攻している方によって否定的な論文まで出されたようです。
確かに、MBTIを「学説」として見たときにはそうかもしれません。

 以前Twitterの方で、「MBTIこそ宗教だ」というツイートを拝見しました。
私は、まさしくその通りだと思います。MBTIは宗教、思想です。
そして、多くの宗教が無神論者によって無価値だとされてきたように、そこには大した証拠も、具体的に誰かを救うという保証すらないわけです。

 しかし、「人間の正しい在り方が一つなわけないだろ」と声を上げる旗になることは可能です。「それ以外」として放り出された一個人としての在り方を「別の正解」にまで押し上げることはできるはずです。

心理機能の強弱という概念は、
「誰にでも思考の偏りがありうること」
「自分とは違う思考をする人がいるという可能性」
そして「あなたの思考も、あなたと異なる誰かの思考も、決して間違いではく、お互いに必要で、大切にするべきものであるということ」
が前提となる価値観としてそこにあるわけです。

感情を大切にできる人間だけが精神的に優れているのでも、論理的なアウトプットができる人だけが人間として崇高なのでもない、ということが前提として横たわっている思想だと思うのです。それは、あなたとは違う「正解」が、この世に健全に存在する「可能性がある」ということです。

可能性とは拡散性のことです。
MBTIは人を16種類に当てはめてニヤニヤと観察するという面だけではないのです。「1つだけに帰結された正解」を「16の方向に向けて分散する」ということがこの宗教の1番のテーマだと私は考えます。

 よく、16種類だけに人間を分類することに抵抗があると感じられて、それゆえにMBTIに嫌悪感を抱いている、という声を見かけます。その感覚、あなたが感じたことを私は否定しませんし、できないと思います。
しかし、もし1つだけ私から伝えさせていただくのなら、
「では、MBTI以外の視点では人を分類などしていないと言えるのか」
ということです。

人を分類するということ

 かの有名な国語の教材「ありのままの世界は見えない」で学んだように、私たち人間は、何かしらの約束事、知覚の枠組みに沿って世界を認識し、解釈しています。教育の読解問題などにおける「正解」も、あくまで「読解問題という枠組みによって規定された正解」です。
だからセンター入試公式の用意した「模範解答」と問題文の筆者による「本来の意図」との間に違いが生まれる、というようなことが起こるのです。
全く同じ文章も、それを解釈する約束事が異なれば違う意味を持ちうるのです。

 そして、これは性格についても言えることだと私は考えます。
性格の良し悪し、「正解」であるかどうかに、現段階では形而上学的なレベルでの、完全に普遍的な結論を出すことは難しいでしょう。なぜなら性格の「正解」はその土地の文化、宗教、土地の自然環境との兼ね合いという様々な条件、約束事によって大きく違ってくるからです。

しかし、西洋的な二項対立の価値観が支配的な今の日本では「一つの約束事」のみによって規定された「正解」か「それ以外」のどちらかしかあり得なくなってしまっていると感じます。
マナーを身につけ、利他的で、温厚で、集団優先主義な「正解」の人物像に近づくよう努力するか、「それ以外」として社会的な不利を被るか、のどちらかであり、実質の選択肢は「一択」か「棄権」です。

私は長きにわたって実質「棄権」してきました。
あまりこの選択をする人は多くないようです。理由は明確で、弾圧を受ける恐れがあるからでしょう。日本に限らず、ヒトには(MBTIで言うところの)情緒優位な個体が多いという統計が出ているようです。しかし、どうやら「情緒優位であること」と「共感性があること」とは違うのか、世界史的に見ても、人類は自らと異なる集団への共感性を捨てることに抵抗がないようです。このことも、ますます一択を選ばざるを得ない要素になります。

しかし、当然と言えば当然ですが、地球上の全ての地域のこうした「正解」に当てはまる個体は、まず自然に発生するものではないと思われます。
欧米の基準でよしとされるパーソナリティーを持つ人物でも、そのままの価値観や行動原理の持ち主として中東や東南アジア、日本や中国へ行けば、まず顰めっ面をされるものではないでしょうか。
それはその人物が「(本質的に)非常識」なのでも、その地域の価値観が「古い」のでもなく、ただただ両者の噛み合わせが悪かったというだけのことです。たったそれだけのことなのに、私たちは誰かを「正解」の名の下に弾圧せずにはいられないのです。

そこで、私はMBTIの「16種類」と言う分け方に希望を見出したわけです。
「正解」か「それ以外か」の2択から脱する1つの考え方として有効ではないかと考えたのです。たとえたったの16種類だとしても。
MBTI教の「MBTIは(基本的には)変わることがない」という教えもありがたいものです。それは単に遺伝子的に決まっていて「変えられない」ということだけではありません。

MBTIタイプのどれか一つを「正解」としたとしても、他のタイプの人間を無理やりその「正解」に「矯正」することなど無意味だ

と言うことができるわけです。
変えられるということは介入ができるということです。個人の内面や人格に対する支配が可能だということです。それが無意味であるとできる点においてこの宗教は評価できると考えます。

終わりに

初めてのブログなので文章構成等々至らない点があったと思いますが、長い間、MBTIについて個人的にぼんやりと考えていたことを文章化できてスッキリできてよかったです。
ここまで読んでくださりありがとうございました。




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