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「比べる」ことで世界の豊かさを感じた~英語と日本語比較の大学講座を受けて感じたこと~

1ヶ月以上前になってしまいますが、
英語と日本語の(主に文法的な)比較をテーマにした、地元大学の公開講座を受けました。
言語好き、言葉好きの興味で受けに行き、楽しく受けてきたわけですが、
それに加え、〝世界の豊かさ〟を感じるまでに至りました(わお!笑)
なぜそこに行き着いたのか、個人的にも整理をしたいと思ったので書いてみます。

当日の授業では、
日本語→ちびまる子ちゃんファミリー

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英語→スヌーピーと仲間たち

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の会話を取り上げ、比較。

詳しくは書きませんが、
日本語の場合は、一人称や二人称の表現が複数あり(私、ぼく、俺、わし…、あなた、あんた、お前、君…)、それによって話し手が誰なのかがある程度、判別可能なのに対し、
英語は、一人称はI、二人称はYouに集約されてしまい、いきなり会話文を見せられたたけでは誰のセリフか見分けるのが困難。
まるちゃんには予備知識があるため、スヌーピーの方はキャラクター解説を聞いたうえで検討しましたが、全然正解できませんでした。
確かに、とすごく面白く納得したわけです。

でも、これって比較したことで気づけたことなんですよね。
私はふだん日本語を使っていて、この一人称や二人称も使い分けています。
います、と言い切るのが疑問に感じられるほど、意識せず、何気なく、やっているでしょう。
でも、比べることでこうやって日本語の特徴が浮き上がって見え、この場合だと、便利だなとメリットに感じられます。


言語に限らず、何事も比べると違う部分が見えてきます。
〝違う〟ということは、違和感を生む、異質、異物なので、意識が向きやすい。いわば〝コントラストが強い〟から目を引くわけです。

でも、全てが異なるわけじゃなく、同じだったり似ていたりする部分も多々あるはずです。
この授業で出てきてはいないし、パッと思いつかないのですが(笑)英語と日本語で似ている部分もあると思います。
私が大学で専攻していたドイツ語も、日本語と近いなと感じる部分が少なくありませんでした。(言語を習得する際のハードルを下げる目的でそういうことを盛んに言っている可能性もありますが笑)

違う部分も面白さであると同時に、異なる歴史文化を持っているのに似ているということも逆に面白いなと思います。
物理的な距離は遠くとも、重なる部分がある不思議を感じるし、やっぱり同じ人類なんだな~と親近感や安心感のようなものがじわ~っと湧いてきます。画像3

今のコロナウイルスによるパニックの状況も、世界を見渡してみてもそんなに大差がありませんよね。
トイレットペーパーや食料を買い占めてみたり、
その一方で、困難な状況を少しでも楽しくしようとする人がいたり。。。
そう考えると、世界で思いを寄せ合ってこの困難を乗り越えていきたいと改めて思うし、
その後の世界も、いがみ合い、否定し合うのではなく、互いに思いやり、尊重し合う雰囲気にしていけたら、というかしていけるばず、と思います。

比べることは時として問題を引き起こすことがあるのは否めません。
それはどちらか一方の立場から「優/劣」や「善/悪」をつけようする、そしてそれに固執すること、
それによって必要以上に相手を批判、否定しようとしているから、という気がします。(私自身も思い当たることがあります。。。)
もちろんその判断が必要なこともあるし、ある場面においてはそれが正しい場合もあるでしょう。
でも、別の場面や別の立場に立ったらその判断は変わる、真逆にすらなり得るわけで、そのことを知っておく、理解しておくことが大事なんじゃなんjでしょうか。
必ずしも共感はできなくとも、違いがあることはせめて受け入れる。尊重する。
そして、似ていたり同じ部分もあるということも。
(同じ部分もきっとあるから、あまり相手を批判すると、巡り巡って自分のサイドを否定することにもつながってしまうかもしれないし)

異なる部分を認めることは、自分の側になかった感覚、思考に気づくきっかけを与えてくれるはず。それは視野を広げてくれます。
そして、相手の特長や魅力に気づけるようになります。
それだけでも十分ですが、ひるがえって、
相手側にはない自分の側の特長や魅力にも気づけるようになると思います。
そうすれば、
自分を取り囲む世界がとてもとても〝柔軟に〟〝ふくよかに〟なっていく気がするのです。

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