3.11 ~なぜ忘れてはいけないのか~
10日経ちましたが、今日はタイトルの通り3.11について。
昨日も東北で地震がありましたね。
僕は大阪のスタバで丁度昨日投稿した記事を書いていました。スマホの防災速報アプリの通知が鳴り、悪寒が走りました。
幸い死者の情報は今のところ入ってきていませんが、負傷者はおられるようです。今後も引き続き余震の恐怖などあると思いますが、どうかご無事で。そして僕たちも。いつどこで地震があるかわからないという意識を忘れずにいましょう。
さて、3.11についてですが、震災から10年の特番やワイドショー、菅さんのスピーチは見ませんでしたが、今年も14時46分にはテレビの前で黙祷をしました。
僕は毎年この時期に抱く疑問、違和感があります。
それは、「忘れない」という言葉。
皆さんは、何も考えずに、ただ「忘れちゃいけないよね」と漠然と思っていませんか?
なぜ忘れてはいけないか。考えたことはありますか。
毎年やってくるこの日に、何度でも思い出して祈りを捧げることの意味を、考えたことがありますか。
「あー、もう10年も経ったんだ~」と呟き、
お涙頂戴の特番にただ涙を流し、
「辛いけど、自然の力には抗えないよね」
と諦め、考えることをやめていませんか。
思考停止の「絆」「感動」だけの追悼はもうやめませんか。
もちろん、震災で亡くなられた人の命は等しく尊い。けれど、思考停止の追悼ムードには疑問が残る、と言いたいのです。
絆や感動、頑張ろう日本、から
あの日の大きすぎる代償と教訓を生かして、来るまだ見ぬ大災害に備えて、社会をよりよくしていくためにはどうしたらいいか、考えていく段階に、そろそろ進みませんか。
地震や津波で亡くなった命。
原発事故は人災である、との言説は既に周知ですが、いわゆる「普通の」震災死の中にも、人災とまでは言わずとも、社会的な要因が大きく作用し死んでいった命は確かにあるはずです。
そこのところをもっと考えていきませんか。
だから、不気味なほどに「絆」を強調し、「がんばろう」と言い、「自然の力は怖い」などと軽んじて言えてしまうことには恐ろしさを感じます。(それらを強調して呼びかけたのは被災者ではないと思いますが。)
確かに自然の力には抗えない部分はあるにせよ、防げた死はあるはず。
忘れない心、と毎年この時期に強調されますが、
忘れないのは、
「次に同じような災害があったときに、『今回は防げなかったけど防げたはずの死』を繰り返さないために努力する糧として」忘れないということであり、
単に「いっぱい死んじゃって悲しかったから忘れないでおこうね」ではないと思うのです。
よく聞く言葉として「風化させてはいけない」というものもあります。
僕は当たり前のように被災地やボランティアスタッフの中で頻繁に口にされるこの言葉に、ずっと素朴な疑問を抱いていました。
なぜ風化させてはいけないのかと。あの震災が辛くて仕方ない人にとっては、早く風化してほしい記憶なのではないか、と。
いったい何のために風化させないでおくのか、と。きっと多くの人が、その理由も考えずにただ、「風化させてはいけない」と言ってきたのではないでしょうか。
東北の震災から10年のこの年に、僕はやっとその答えを見つけたような気がします。
「社会が、世界がこんな風じゃなかったら、救えた命はあったのになあ」と、もう二度と思わないために、忘れない、風化させないのだ、と。
被災したわけではない。毎年足を運んでいるわけでもない。それでも震災をきっかけに知り合って、必死にあの日を乗り越えようと、向き合おうと今も生き続ける人たちを知っている。
そんな人たちは、もしかしたら今もまだ自分の事だけで精いっぱいかもしれない。
じゃあ被災してない僕らがやるしかない。
救えたはずの命はもう帰ってこないし、やり直しは出来ないけれど、
繰り返してほしくないという気持ちはみな同じなはず。
「防げたはずの死」はもういらない。
「次」に備えて盤石な社会をつくる。
だから僕は、忘れない。
小野トロ
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